先ごろ、政府が孤独・孤立問題の対策室を内閣官房に設置するというニュースがありました。
コロナ禍での失業などにより、社会的孤立に追いやられ、誰とも接せず、誰にも頼ることができなくなってしまった人たちに救いの手を差し伸べることは大事ですが、こういう話題になるたびに「孤独は健康に悪影響」「孤独は死に至る病」などと、いたずらにその恐怖をあおる「孤独は悪」論が声量を増すことは逆に由々しき問題だと考えます。
2018年にイギリスで孤独担当大臣が設置されたときも、当時、ベストセラーでもあった下重暁子さんの『極上の孤独』本ですら「孤独礼賛する有害な悪書」などと、善悪の二元論に仕立て、まるで中世の魔女狩りのように「孤独そのものを駆逐すべき」という言説をうちたてる論者も見かけられました。
孤独を善悪でわけることは的外れだ
孤独というものを善悪でわけること自体的外れですし、「孤独は誰にとっても絶対的な悪である」などと一方的に断ずるのはいかがなものかと思います。あまつさえ、それが高じて、未婚や非婚など「1人で生きる」人たちの生き方そのものを否定する論にまで展開すると、昨今見られる「正しさの暴力」に近い危うさを感じます。
1人でいることを寂しいと感じる人もいますが、1人でいることを快適と感じる人もいます。それどころか、同じ人間であっても、あるときは誰かと一緒にいたいと思うし、ある場面では1人になりたいと思うはずです。
独身にかぎらず既婚者でも、コロナ禍の在宅勤務などで終日家族と一緒に過ごす時間が増えたことで「たまには1人になりたい」と思った人も多いのではないでしょうか。ずっと1人がいい、ずっと誰かと一緒がいいなどという人間はほぼ存在しません。
孤独とは主観的な感情です。感情である以上、その感じ方は人によっても、時と場面によっても変わります。いろいろあって当然です。喜怒哀楽の感情のうち「喜」と「楽」しか感じない人間がいるとしたら、はたしてその人は幸せなのでしょうか?
「望んだ孤独」はいいが、「望まない孤独」は問題だ、とする声もありますが、孤独とはそもそも本人の望むと望まないとにかかわらず付き合っていかないといけないものです。
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