深谷駅はなぜ「東京駅そっくり」になったのか 「レンガの街」として発展した渋沢栄一の生地
深谷駅からの専用線敷設と前後するが、1885年、伊藤博文内閣が発足。初代外務大臣に井上馨が就任した。
井上に与えられたミッションは不平等条約を改正することだったが、伊藤はほかにも井上に託していたミッションがあった。それは、帝都・東京を大改造することだった。伊藤は内閣直属の特命部署として臨時建築局を設置。井上を総裁に抜擢する。
当時、各官庁の庁舎はあちこちに点在していた。政治・行政を効率的にするには、官庁の集中配置が欠かせない。銀座煉瓦街を立案・主導した井上は、官庁集中計画でもレンガを多用することを考えていた。さらに井上は、官庁だけではなく中央ステーションや議事堂といった主要建築物もレンガ造で建設することを構想していた。この計画を実現するには、日本煉瓦製造で生産されたレンガが必要不可欠だった。
だが、官庁集中計画に傾注しすぎてしまったため、井上は外務大臣本来の使命だった不平等条約の改正に失敗した。その責任を取る形で外務大臣を辞任し、臨時建設局総裁も退任。主を失った臨時建設局は役割を閉じていく。レンガ建築物が並ぶ官庁集中計画は白紙に戻されることになり、計画は司法省(現・法務省)庁舎と大審院だけが実現して幕を下ろした。
丸の内をレンガ色に
官庁集中計画は頓挫したものの、レンガという新しい建築資材は引き続きムーブメントを巻き起こしていた。
レンガのムーブメントは、ジョサイア・コンドルという偉大な建築家を伴って東京・丸の内にも到来する。丸の内の広大な土地は三菱が所有しており、コンドルは三菱から依頼を受けて丸の内一帯をレンガ建築一色にしようと構想した。
ところが、構想段階だった1891年に濃尾地震が発生。被害の中心地だった名古屋をはじめ岐阜など広範囲にわたり多くの建物が倒壊した。被害は木造だった個人住宅だけではなくレンガ造で建設されていた銀行や庁舎にも及んだ。
三菱の2代目総帥だった岩崎弥之助は丸の内をレンガ造建築で埋めることに一抹の不安を覚えた。そこでコンドルに視察を命じ、場合によっては丸の内のレンガ造を一からやり直すことも視野に入れていた。
視察の結果、コンドルはレンガ造が地震に弱いのではなく、施工方法に問題があったと結論づける。コンドルの調査結果を踏まえ、耐震性を増したレンガ造で三菱一号館が竣工。それを皮切りに、レンガ造の建築物が丸の内に誕生していく。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら