深谷駅はなぜ「東京駅そっくり」になったのか

「レンガの街」として発展した渋沢栄一の生地

渋沢は富岡製糸場の建設に大きく関与するが、翌年に政府と東京府(現・東京都)が共同で取り組む銀座煉瓦街の建設にも大きく関与している。

深谷駅北口の駅前広場にある渋沢栄一像(筆者撮影)

銀座煉瓦街は1872年の大火をきっかけに建設された。銀座や丸の内一帯を焼き尽くした大火は、発足したばかりの明治新政府に大打撃を与える。すぐに明治新政府は銀座の復旧を開始する。純和風の家屋が立ち並んでいた銀座は、井上馨が主導して異国情緒を醸すレンガの街並みへと生まれ変わっていった。井上の部下だった渋沢も銀座煉瓦街の建設に積極的に関わった。

群馬県の富岡製糸場と東京の銀座煉瓦街、両者にはレンガという共通点がある。富岡製糸場がレンガ造で建設された理由は耐震・耐火を意識したものだが、銀座煉瓦街はそこに文明開化という要素も加わっていた。煉瓦街は視覚的に絶大な効果をもたらし、銀座は日本を代表するトレンド発信地へと成長する。

見た目が華やかな赤レンガの街並みを多くの人が目にし、それが端緒となって、それまでの木造に代わって多くの建物がレンガ造に建て替えられていく。建物によって文明開化の意識は高まり、さらに生活全般に及んでいく。

レンガ造を推進した井上は、幕末にイギリスへ密航留学している。井上はヨーロッパが文明先進国であることを痛感し、日本を文明国にするためにはレンガ造建築を奨励するのが早道だと悟った。その経験が、銀座煉瓦街につながっている。

渋沢が見いだしたもう1つの利点

一方、渋沢は井上の考え方を全面的に同調しつつ、それ以上にレンガ造を推進するメリットにも気づいていた。渋沢が見いだしたレンガ造のメリットは、江戸幕府から明治新政府へと政治体制が切り替わったことによって食い扶持を失った旧士族の救済だった。

江戸幕府が鎖国を解いて多くの外国人が日本へやって来るようになると、自然と西洋技術も日本にもたらされるようになる。1861年には長崎鎔鉄所が国内初のレンガ造建築として竣工している。当初はレンガ造の建築物は多くなく、需要も小さかった。そのため、レンガ生産もレンガ造建築も従来の瓦職人や大工・左官職人の手によって賄われていた。

だが、銀座煉瓦街の建設で大量のレンガが必要になると、現在の荒川区・足立区にあたるエリア一帯に工場が次々と誕生。それでも生産が追いつかず、警視庁は東京集治監(現・東京拘置所)でレンガ生産を開始した。やがて、瓦職人や大工・左官職人だけでは生産・施工が賄いきれなくなる。そこで、失業した武士がそれらの職を担うことになった。

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