深谷駅はなぜ「東京駅そっくり」になったのか 「レンガの街」として発展した渋沢栄一の生地

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レンガの生産・レンガ建築の施工という新しい仕事を生み出し、それを士族授産にしていくというアイデアは旧幕臣の渋沢ならではといえるが、当時のレンガは未知の建築資材。大量かつ高品質なレンガを生産することは容易ではなく、建築資材として通用するレンガは思うようにつくれなかった。

深谷市内の渋沢の生家近くには「渋沢栄一記念館」がある(筆者撮影)

早急にレンガの大量生産を軌道に乗せる必要性から、渋沢は出生地・血洗島の隣村の上敷免にレンガ製造工場を設立した。この地を選んだのは、単に渋沢の縁故という理由だけではない。上敷免はレンガに適した良質な土が採取できる。そのうえ、富岡製糸場にも銀座にも近いことから、供給地としては最適との判断があった。

工場は1887年に操業を開始した。こうして、日本でも本格的なレンガ生産が始まり、本格的なレンガ建築の時代を迎える。そして、このレンガ建築時代を支えたのが、ほかならぬ鉄道だった。

日本初の民間専用線はレンガ工場

1883年、上野―熊谷間の鉄道が私鉄の日本鉄道(現在の東北本線などを建設)の手によって開業した。

日本鉄道は華族たちが出資した私鉄で、渋沢も経営陣として名を連ねていた。設立の目的は開発が遅れていた東北地方の振興という面が強かったが、東京から東北地方までは遠く、そのためだけに線路を敷設することは不経済だった。経営効率の観点から、手始めに日本鉄道は近くに富岡製糸場がある高崎駅まで線路を建設した。

生糸は当時の日本で数少ない海外製品に太刀打ちできる輸出品で、迅速かつ大量に横浜港へと運ぶことが至上命題になっていた。生糸を鉄道で大量輸送できるようになれば、それは日本の国益にもかなう話だった。そうした背景もあり、日本鉄道の建設には政府も協力を惜しまなかった。

上野―熊谷間で開業した日本鉄道は、3カ月後に本庄駅まで延伸する。熊谷駅と本庄駅の中間には深谷駅が開設された。つまり、日本煉瓦製造の上敷免工場が操業を開始した時点で、すでに深谷駅は開業していた。

しかし、当初は鉄道を使うことなく、舟運によって製造したレンガを運搬していた。工場は小山川に面し、小山川は利根川へとつながっている。これらの舟運を活用することで、大量のレンガを輸送できると考えていたようだ。その後、増える需要に対応するべく、日本煉瓦製造は1895年に深谷駅から分岐して工場へと通じる専用線を建設。民間企業が敷設した専用線の国内第1号になった。

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