織田信長を生んだ父・信秀の独創的な教育方針 歴史に学ぶ乱世を生き抜く発想力の身に付け方
知られざる信長の父の教育方針
織田信長といえば、古い権威を叩き潰し、新しい実力主義の時代の礎を築いた、というイメージがある人も多いでしょう。こうした偉業を、生まれ持った才能でやり遂げた人物。けっしてコツコツ努力するような人ではない、というのが信長の一般のイメージだと思います。
しかしそうとも言い切れず、彼の数々の偉業は、信長の父・信秀の教育による成果だった、と見ることもできるのです。どういうことか、詳しく説明していきましょう。
信長の父である織田信秀は、文武に優れた人物でした。もともとは尾張一国どころか、清洲という地域の三奉行のひとりにすぎませんでした。それを信秀は、尾張を支配する守護代を圧倒するほどの権勢と人望を持つまでに、勢力を広げたのでした。
信秀は武勇に優れているだけではなく、蹴鞠や歌道、礼法にも通じた文化人でした。非常に勉強熱心な武将だったのです。教養を身に付けるため、わざわざ京から公家や有職故実に詳しい人物を招いては、指導を受けていました。
ところが、嫡男である信長に対しては、自分と同じ教育を一切させていません。それどころか、当時の大名の必須科目である儒学・仏教・連歌や、中国の古典の暗記なども無理にはやらせなかったのです。
信秀自身は、都の公家の間でも名が知られるレベルの教養がありました。和歌も連歌も、見事に詠めたのです。並みの親の感覚なら、子どもの信長も自分と同じ教育をほどこしたい、と思うに違いありません。しかし信秀は、時代の先を読んだうえで、信長をどう育てるかを考えました。
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