冷戦が終わる前の高度成長期は、日本の科学、特に通産省が率いた科学技術が経済成長に大きく貢献したことが世界の注目を浴びていました。『Japan as No.1』の時代です。日本の成長は海外から羨望のまなざしで見られたと同時に、やっかみも買ったようです。日本の科学技術は欧米の基礎の上に発展してきたことから、日本は「ただ乗り」をしている、との批判も多く、当時の科学者、技術者はくやしい思いをしたようです。
冷戦崩壊は、日本の科学界に大きな影響を与えませんでした。しかし同時期におきたあることが、日本の科学の方向性を大きく変えていったのです。
科学もバブル崩壊で変わった
それがバブル崩壊です。この数十年で、日本の科学の在り方をもっとも大きく変えた事柄のひとつは、間違いなく1990年代はじめのバブル崩壊でした。バブルの崩壊により政府の財政が厳しくなり、それまで右肩上がりだった日本の科学技術予算がこの先、どうなるかわからない、という状況になりました。
科学技術力が日本の高度経済成長を支えていたことは明白です。地下資源などに恵まれない日本が、バブル崩壊後も世界で活躍していくために必要なことは何か。このとき、科学技術の有用性に改めて注目が集まりました。「日本は科学技術で生きていく」ことが再確認され、この結果、1995年に、日本の科学は先端的で欧米からのキャッチアップは終わった、これからはフロントランナーとして基礎科学から応用まで幅広い分野にしっかりと予算付けを行うと目標を掲げた「科学技術基本法」が制定されたのです。5年間で25兆円という目標額の大きさも注目されました。
予算をしっかりと付けて実利につながる成果を出す、科学を推進することが強く推奨されたと同時に、同じ法律が基礎科学分野までをカバーする日本の包括的な法律として成立したのです。結果、重要分野に予算を配分しやすくなったと同時に、基礎研究にも自然と出口を求める雰囲気が強くなっていきました。
米国をはじめ多くの国が80年代までの「日本型科学」を目指す中で、日本は強力に実利を求めつつ、反対に基礎的な研究までもひとつの法律の中で網羅した運営に転換し、世界からも大きな注目を浴びました。
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