東横線綱島駅は、大正15年に東京横浜電鉄綱島温泉駅として開業。私鉄経営において沿線に温泉リゾートがあることは集客効果につながる。昭和2年に東京横浜電鉄は駅前に綱島温泉浴場を開業し、戦前の綱島温泉は約50軒の旅館がある温泉街に発展した。戦後も昭和20年代には復活し、最盛期とされる昭和30年代には温泉旅館が70~80軒、芸者が300人という規模だったとか。
このように戦前戦後と「東京の奥座敷」として賑わった綱島温泉だったが、その後、東海道新幹線や自動車など交通手段の発達により首都圏からは伊豆、箱根などにも簡単に行けるようになり、高度経済成長期以降、急速に衰退してしまう。
綱島ラジウム温泉 東京園は、戦前に東京横浜電鉄が建てた綱島温泉浴場跡を戦後買い取って営業していたもので、綱島の温泉地としての歴史を継承してきた存在だった。演歌歌手の三橋美智也が、下積み時代にここでボイラーマンをしていたなどの逸話もあり、今も横浜市民には懐かしく思う人も多いようだ。
昨年12月、東急新横浜線の綱島新駅の駅名が新綱島駅と発表されたが、これは地元・横浜市港北区内の在住・在職・在学者から公募し1位となった駅名。2位となった駅名が綱島温泉駅だったいうことで、まだまだ地元住民には「綱島といえば温泉」という意識が染み渡っているようだ。
突如広がる果樹園
新綱島駅・駅ビル建設現場の周りを一周してみたところ、なんと、その裏手に広大な果樹園と古民家があるのを見つけた。江戸時代から一帯の名主を務めた池谷家が、ここで今も桃農家を営んでいるのだ。古民家は江戸時代末期の1857 (安政4)年に建てられたものだとか。鉄道新駅の工事が進む敷地隣に、こんな地域の歴史遺産が残っていることに心底驚いた。
綱島は度重なる鶴見川の氾濫によって農民が被害を受けてきた土地だった。明治末に池谷家は、水害に強く地域の土壌にも適した桃の栽培を導入し、新品種「日月桃」の栽培にも成功する。
昭和初期には綱島一帯は桃の一大生産地に発展し、昭和13年頃までは岡山県をしのぐ日本一の生産量を誇っていたという。
今も池谷家は毎年約60本の桃を栽培し、販売している。温泉が湧き、桃が実る。まさにこの地は桃源郷だったということだ。
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