同じメディア業界に生息する筆者の知るかぎり、フリーランスで働くライター、スタイリスト、カメラマンといった独立自営人種は、40歳前後で息切れしたり、時代と合わなくなって仕事が激減するケースが多い。
だが、大草さんは、逆に、40歳前後で、一気に名が出て人気が沸騰した。
大草さんは、一体、どうやって、「40歳クライシス(40歳前後のキャリアの危機)=若さで勝負することも、貫録で勝負することも難しい年齢」を乗り越えたのか?
”繰り上げ合格”で入った、ファッション誌での20代
その話をする前に、まずは大草さんのキャリアを振り返りたい。大草さんはもともと、婦人画報社(現ハースト婦人画報社)の編集者出身だ。同社といえば、日本最古の女性誌『婦人画報』を発行する一流出版社。
立教大学時代の大草さんは、同社の雑誌『ヴァンテーヌ』の大ファンで、この会社に入り、同誌の編集をするのが夢だったという。
「好きなことには馬力を発揮する性分だとはわかっていたので、就職活動ではトコトン自分の“好き”にこだわりました。でも、婦人画報社は最終面接で落とされちゃったのです」
1995年当時の就職活動戦線は、特に女性にとっては超がつく氷河期だった。銀行員だった父の勧めで、日本長期信用銀行(長銀:現新生銀行)を受けてもみたが、そこも不採用。
「人事の方から、『お嬢さんはウチには来ないほうがいい』という電話があって。よっぽど、銀行は向いてなかったのでしょう(笑)」
こうなったら、就職浪人するしかない――そう腹をくくった矢先、 婦人画報社から“繰り上げ合格”の連絡が入った。
「新雑誌を立ち上げるので人員が足りない、ついては、ウチに来ませんか?と誘われたのです。もちろん、迷うまでもなく、飛びつきました」
こうして、晴れてあこがれの職種に就いた大草さん。もともと「好きな仕事をやりたい」「仕事をするからにはトコトンやりたい」というキャリア意欲が高かったと言う。
「私は、長年、自分が好きではなく、自信がなかった。容姿や学歴や実家が裕福だとか裕福じゃないといったことで自分を測られるのが嫌だし、そのどれも持っていない私は、どうしたらいいんだろうと思っていました。だから、自分がきちんと評価してもらえるキャリアが欲しかったのです」
そんなキャリアを得るために、最初は「体育会的な社風でのぞうきんがけ」もいとわず、ガムシャラに働いたと言う。
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