「会社には、実家が大金持ちで会社の近くに月5万円の駐車場を借りて、車通勤するようなゴージャスの極み、みたいな人が普通にいました。そんな立場ではない私は、局長に毎朝お出しするお水の準備など、下働きも進んでやりました」
その苦労は報われた。半年後、局長のプッシュで、念願の雑誌『ヴァンテーヌ』編集部に配属させてもらえたのだ。ここで、大草さんは、スタイリスト、編集者、ライターとして八面六臂の活躍をする素地を身に付けた。
「通常、女性誌は、ファッションページのスタイリングはスタイリストが担当し、文章はライターが書き、編集は編集者がする分業制ですが、当時の婦人画報社の雑誌作りは、編集者が企画に、スタイリング、コンテ書き(構成)、文章作り、撮影立ち合い、洋服のアイロンがけから返却まで全部を担当したのです。もちろんその分、仕事は大変でしたが、勉強になりましたね」
と同時に、ヴァンテーヌ編集部では生涯のメンターと言える恩人に出会った。当時の編集長の女性だ。
「私が河口湖で撮影だった日、動きやすいからという理由で、チノパンにニットといういでたちでいたら、『アナタ、今日、遠足だったの?』と嫌味をおっしゃった方です(笑)。でも、そのおかげで、服装とは名刺であり礼儀なんだということを実感として、教わりましたね。
彼女は今でも、私の『おしゃれの母』。また、言葉遣いであったり、人との付き合い方であったり、原稿書きの基本であったり『社会人として、編集者としての礎』を作ってくれた人でもあります」
天職ともいえる好きな仕事に巡り合い、上司に恵まれ、編集部内での仕事の評価も上々だった。
だが、4年半の勤務で、大草さんはこの会社を去る決断をする。どうしてだったのか?
「5年ワンキャリア説」、そして南米遊学へ
「その頃から、私の頭の中に『5年ワンキャリア』説があったのです」
キャリアの節目は、5年おきに訪れる――。大草さんは、漠然とそう考えていたという。
「編集者としてスタイリングから原稿書きまでひととおりの仕事ができるようになり、“ド新人”の時期は脱した。これからの5年は、“中堅”としてキャリアを作る時期。でも、中堅キャリアを作るのは、ここではないという気持ちを感じ始めていたのです」
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