実は善人とは限らない「日本の神様」驚きの正体 一神教の世界とは大きく異なる東洋の思想

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宣長は、同じ『古事記伝』の第6巻で、「貴きも賤きも善も悪も、死ぬればみな此ノ夜見ノ国に往」くとし、誰もが死んだら、伊邪那美命(いざなみのみこと)が赴いた黄泉(よみ)の国(夜見ノ国)へ赴くとしていた。

そのうえで、「世ノ中の諸の禍事をなしたまふ禍津日ノ神(まがつひのかみ)は、もはら此ノ夜見ノ国の穢より成坐るぞかし」と述べている。

世の中に悪をもたらすのは、古事記に登場する禍津日ノ神であるとされる。この神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から戻ってけがれをはらったときに生まれている。

神学者や哲学者を苦しめる一神教の難問

一神教の世界には、実は重大な問題が存在している。それは、絶対の善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのかという問題である。神が善であるなら、その創造にかかる世界に悪が存在するはずはない。

ところが、現実には、さまざまな悪が存在している。この問題をどのように解決すればいいのだろうか。少し考えてみれば分かるが、問いとしてとてつもなく難しい。神学者や哲学者は、この難問に苦しめられてきた。

その点、宣長が考えたような形で神をとらえれば、そうした難問にぶちあたらない。日本では特別な働きをしたものが神として祀られてきた。

宣長が『古事記伝』の執筆を開始したのは、明和元(1764)年のことで、書き上げたのは寛政10(1798)年のことだった。脱稿までに34年の歳月が流れている。宣長は71歳で亡くなっており、人生の半分を『古事記伝』執筆に費やしたことになる。

宣長は、中国文明の影響を受ける前の日本人の精神性を古事記に求め、そこに記されたことを真実として受けとめている。

死者は黄泉の国に赴くと古事記に書かれている以上、宣長としては、それを受け入れるしかなかった。この世に悪が生じる原因を、古事記が禍津日ノ神に求めるなら、そう考えるしかなかった。宣長にとっては、古事記に書かれていることがそのまま真実だったのである。

しかし、これはあまりに受動的な考え方である。また、これでは死んだ後のことについていっさい希望を抱くことはできない。死後は、仏教が説く浄土に赴くこととは比べようもないほど惨めなものになってしまう。

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