箱根駅伝の名脇役、登山電車が育てた地「強羅」 政財界の大物が集った箱根の「新しい温泉地」

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そして、強羅園の一画に整備された白雲洞茶苑は、強羅開拓に功績のあった益田に寄贈される。茶道に傾倒した益田は白雲洞で多くの数寄者と交流を結び、白雲洞は益田の手を離れた後も横浜の貿易商だった原富太郎、そして電力王として政財界に大きな影響力を発揮した松永安左エ門へと受け継がれていった。

強羅公園は強羅の中心にあり、観光客が多く訪れる(筆者撮影)

益田の提唱した箱根アルプス構想では、強羅は公園を軸として別荘や街路を整備するものだった。強羅園の周囲には別荘地や住宅地が開発されたが、三井鉱山(現・日本コークス)会長や昭和飛行機工業社長を務めた牧田環、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の三男・康弥、後藤新平といった錚々たる政財界人が別荘を構えたことによって強羅は繁栄を極めていく。また、箱根に鉄道事業で進出する計画を立てていた福原有信や藤山雷太なども強羅に別邸を構えた。

強羅の別荘地を語るうえで忘れてはならないのが、閑院宮箱根強羅別邸(現・強羅花壇)だろう。閑院宮家は小田原に別宅を有していたが、載仁親王が強羅を訪問して同地を気に入り、1930年に強羅に別邸を建設した。載仁親王が陸軍元帥だったことから、別邸は陸軍技師の柳井平八が設計を担当。戦後、閑院宮家は皇籍離脱。財産税を支払うために邸宅は売却されて、現在は高級老舗旅館の強羅花壇となっている。

関東大震災の被災と再出発

1920年、東海道本線の国府津駅から熱海駅までを結ぶ熱海線(現在の東海道本線の一部)が開業。その中間には小田原駅が開設された。これに伴い、小田原電気鉄道は重複する軌道線の小田原駅―国府津駅間を廃止し、箱根湯本、そして登山鉄道沿線への玄関口は小田原駅となった。アクセスは変化したが、観光地としての強羅の伸長もあって登山鉄道の利用者は大きく伸びた。

しかし、1923年の関東大震災によって登山鉄道は損壊し、1年以上にわたって運休を余儀なくされる。さらに、復旧後すぐに脱線事故も起きてしまった。

これらによって経営が行き詰まった小田原電気鉄道は、1928年に日本電力に吸収合併される。日本電力は大阪を地盤とする電力会社で、吸収合併は関東への勢力拡大の一環だった。小田原電気鉄道が保有する電力事業が狙いだった日本電力は、数カ月後に鉄道部門を分離。鉄道部門は「箱根登山鉄道」として再出発を果たす。

箱根登山鉄道は莫大な収益をあげていた電力事業をもぎ取られたこともあり厳しい船出になったが、それまで箱根湯本が起点だった鉄道線の小田原乗り入れ工事を推進し、1935年に小田原駅―強羅駅間の直通運転が実現。箱根湯本駅での乗り換えが不要になり、所要時間も短縮した。これが強羅への観光客増加に一役買う。

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