箱根駅伝の名脇役、登山電車が育てた地「強羅」 政財界の大物が集った箱根の「新しい温泉地」

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江戸時代まで、箱根の温泉地は「箱根七湯」と呼ばれていたが、明治期には急速に開発が進み、「箱根十二湯」と呼ばれるようになる。渋沢とともに耕牧舎を立ち上げた益田は、耕牧舎の解散後に強羅(ごうら)の別荘地開発に取り組む。

当時、富裕層の多くは観光地の箱根が伸びると予測して旅館業へ投資していたが、自ら別荘を構えようとする富裕層は少なかった。しかし、1886年に芦ノ湖畔に箱根塔ケ島離宮(現・神奈川県立恩賜箱根公園)が、1895年に宮ノ下御用邸(現・富士屋ホテル別館菊華荘)が竣工すると、益田が開発を手がけた強羅一帯は、新しい箱根として脚光を浴びるようになる。

現在の箱根登山鉄道強羅駅。鉄道線とケーブルカーとの結節点で、駅舎は山小屋風のデザインだ(筆者撮影)

それまで箱根の温泉地として中心的な存在だった湯本から、さらに山の上側に別荘地がつくられていく。当時はまだ箱根登山鉄道、そして強羅駅は開業していないが、それでも後に強羅駅が造られる一帯が人気になった理由は、気候のよさや新しい温泉が引かれたといった要因があった。また、富裕層が温泉地の古い風習を嫌悪したからともいわれる。

一方、渋沢はその後に小田急と箱根の覇権を争うことになる西武グループの創始者、箱根土地の堤康次郎とともに温泉付き別荘地を開発する箱根温泉供給を設立し、大涌谷から温泉を引き込むことを計画していた。財界の巨人だった渋沢の影響力もあり、箱根温泉供給は宮内省を動かすことに成功。1933年には、強羅一帯の別荘地に温泉が供給されるようになった。

箱根へのアクセスは国府津から

こうして温泉宿や別荘地、そして住宅地の造成が少しずつ進む。一方、肝心の箱根の足となる鉄道網の整備は、東海道本線が1887年に国府津駅まで延伸開業したことから進んでいった。国府津駅まで線路が延びた翌年には、小田原を経由して箱根湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道が開業する。当時、箱根の玄関口を担ったのは国府津駅だった。

現在、箱根の玄関口としての機能を担うのは小田原駅だが、当時の東海道本線は国府津から御殿場駅を経由して沼津駅へと迂回する、現在の御殿場線のルートだった。小田原を経て沼津へと至る路線を建設するために必要なトンネル技術がなかったからだ。東海道本線が国府津駅―小田原駅―熱海駅―沼津駅という現ルートへ切り替えられるのは、1934年まで待たなければならない。

東海道本線のルートからはずれたこともあり、城下町として栄えてきた小田原や温泉地としてにぎわっていた熱海からにぎわいは消失する。特に、小田原は伊藤博文をはじめ、政財界の大物が別荘を構える地だった。それだけに、小田原の衰退は深刻な事態だった。

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