箱根駅伝の名脇役、登山電車が育てた地「強羅」 政財界の大物が集った箱根の「新しい温泉地」
新型コロナウイルスの猛威が止まらない。2020年は、日本全土がコロナの危機に覆われた1年でもあった。
毎年1月2日・3日の2日間にわたって行われる東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)も、今年2021年はコロナ禍を受けて無観客開催がアナウンスされた。
コースの沿道でも、特に小田原中継所から芦ノ湖ゴールまでの急峻な山道を駆け上がる5区は、レースのクライマックスともいえる区間だけに例年なら観戦者で埋め尽くされる。同区間は、箱根のアクセスを担う箱根登山鉄道ともほぼ並走する。駅伝開催日の1月2日と3日は通常なら登山鉄道も多くの利用者でにぎわい、鉄道側も特別体制で警戒にあたるが、今年は同鉄道も「自宅での観戦と応援」を呼び掛ける。
牧畜には不向きだったが…
箱根は、中世より温泉が湧き出る保養地として名を馳せてきた。交通が不便だったため、多くの旅行者が立ち寄ることはなく、それがかえって秘湯とされるゆえんでもあった。そんな箱根も、明治期になると多くの観光客が箱根を訪れるようになる。特に外国人には人気を博した。
今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一は、1880年に箱根と仙石原で「耕牧舎」を設立する。同社は、後に三井物産の創始者として実業界に君臨する益田孝とともに立ち上げた企業で、当初は紡績業が盛んになりつつある社会情勢を受け、原料となる羊毛を生産する牧場として開園した。
しかし、箱根の気候や土壌が適していないことから、牛乳生産へと事業をシフト。耕牧舎が生産する牛乳は美味しいと評判になったが、牛乳は鮮度が命。当時は自動車での運搬はできず、冷蔵技術も未発達だった。そのため、一大消費地である東京から遠い箱根は販売面で不利で、売り上げは伸び悩んだ。
現場責任者が急逝したこともあり、耕牧舎は解散。1904年に社名を仙石原地所へと改めて箱根の別荘地開発を始める。
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