外国人の人権は無視?知られざる「入管」の実態 2019年にはハンガーストライキによる餓死者も

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「牛久入管収容所問題を考える会」代表の田中喜美子さん(塚田恭子撮影)
入管法に違反したとされる外国人を自国へ送還するための収容所として、1993年12月24日に開所した茨城県牛久市の「東日本入国管理センター」(牛久入管)。この場所で1995年から収容者への面会活動を続けているのが、「牛久入管収容所問題を考える会」(牛久の会・つくば市)代表の田中喜美子さんだ。
入管問題を取材する多くの新聞記者やジャーナリストが田中さんを訪ねるのは、四半世紀にわたって、週に一度、牛久入管の収容者と向き合ってきた田中さんに、収容所の状況や当事者の生の声を聞かせてもらいたいからだろう。
いわば、牛久入管の状況を定点観測してきた田中さんに活動を始めた経緯や収容者の現状、そして面会を通じて見えてきた日本社会の課題などを聞いた。
(取材・文/塚田恭子)

きっかけは東京の支援団体を送迎し始めたことだった

1993年の暮れも押し迫る時期に開所した牛久入管。田中さんによると、当時、収容者に面会に来ていたのは、主に教会関係者や、東京で外国人を支援していたグループだったという。

当記事は弁護士ドットコムニュース(運営:弁護士ドットコム)の提供記事です

「それ以前から地元では、牛久に収容施設ができることへの反対運動がありました。知人がその運動に関わっていたことから、私も集会に参加していたんです。残念ながら施設は建ちましたが。

開所後、東京で外国人の支援活動している人たちが面会に来ていましたが、駅から牛久入管までのタクシー代は当時でも片道2700円ほどかかり、東京からの電車賃も含めると大変な金額になります。じゃあ、地元の団体として、駅から牛久入管まで送迎を手伝うことにしたんです」

東京の支援団体が牛久に来るのは月2度ほどだったが、ただ彼らを送迎して待っているだけでは「おもしろくない」。そう思って、同行させてもらったのが、田中さんの面会活動の始まりだった。

「当時から超過滞在(オーバーステイ)の人はたくさんいました。出稼ぎの人も多い一方で、非常に難民性の高い人もいました。人権団体の『救援連絡センター』を通じて外国人刑事弁護団に依頼され、最初に面会したのは、祖国で反政府活動に関わっていたイラン人でした。

収容所の中にいる人たちは横のつながりがあるので、面会した人から"この人にも会ってほしい"と相談を受け、トルコ国籍のクルド人、中国の天安門事件関連の人やビルマの人たちなど、面会者は増えていきました。

今、多く収容されているのはアフリカ系の人です。とても難民性の高い人が、成田空港で拘束されて上陸できず、退去強制令書が出て、空港の入管支局から牛久に移送されるなど、非常に気の毒で問題なケースがあります」

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