外国人の人権は無視?知られざる「入管」の実態 2019年にはハンガーストライキによる餓死者も
きっかけは東京の支援団体を送迎し始めたことだった
1993年の暮れも押し迫る時期に開所した牛久入管。田中さんによると、当時、収容者に面会に来ていたのは、主に教会関係者や、東京で外国人を支援していたグループだったという。
「それ以前から地元では、牛久に収容施設ができることへの反対運動がありました。知人がその運動に関わっていたことから、私も集会に参加していたんです。残念ながら施設は建ちましたが。
開所後、東京で外国人の支援活動している人たちが面会に来ていましたが、駅から牛久入管までのタクシー代は当時でも片道2700円ほどかかり、東京からの電車賃も含めると大変な金額になります。じゃあ、地元の団体として、駅から牛久入管まで送迎を手伝うことにしたんです」
東京の支援団体が牛久に来るのは月2度ほどだったが、ただ彼らを送迎して待っているだけでは「おもしろくない」。そう思って、同行させてもらったのが、田中さんの面会活動の始まりだった。
「当時から超過滞在(オーバーステイ)の人はたくさんいました。出稼ぎの人も多い一方で、非常に難民性の高い人もいました。人権団体の『救援連絡センター』を通じて外国人刑事弁護団に依頼され、最初に面会したのは、祖国で反政府活動に関わっていたイラン人でした。
収容所の中にいる人たちは横のつながりがあるので、面会した人から"この人にも会ってほしい"と相談を受け、トルコ国籍のクルド人、中国の天安門事件関連の人やビルマの人たちなど、面会者は増えていきました。
今、多く収容されているのはアフリカ系の人です。とても難民性の高い人が、成田空港で拘束されて上陸できず、退去強制令書が出て、空港の入管支局から牛久に移送されるなど、非常に気の毒で問題なケースがあります」