56歳・元日本人傭兵の何とも壮絶で快活な半生 20年近くミャンマーなどで命を賭け戦ってきた

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戦場から帰ってきて家族やペットと再会して、大歓喜するシーンがニュースになることがある。高部さんは10年も離れていたのだから、感激もひとしおだと思うが、まったくそんなことはなかったという。

高部さんの母親は、

「お前は小さい頃から『戦争だ!! 戦争だ!!』って言ってたから、きっとこんなようなこと(傭兵)してるんじゃないかと思ってた」

と高部さんに告げた。

「見事に母親の予想どおりのことをしていましたね(笑)。久しぶりに会っても、押し寄せる感動とはなかったですね。

僕も母親も、ごく自然に、まるで昨日も会っていたかのように過ごしました」

そうして20年近く傭兵として活動してきた高部さんだが、43歳を機に引退することに決めた。

「やはり体力的に衰えたのが理由ですね。カレン軍の人たちはかなり歩くのが早いのですが、それまでは普通についていけてました。ただ40歳を超えてから、彼らが心なしか僕に遠慮してちょっと速度をゆるめてくれたり、気遣ってくれてるのがわかるようになりました」

また若い頃は2~3時間眠れば体力が70~80%は回復していたのが、50%くらいしか回復できなくなったと感じた。

「傭兵は通用しなくなるまでやっちゃダメ」

「傭兵はスポーツと違って、通用しなくなるまでやっちゃダメなんですね。仲間の命を危険にさらしますから。まだ余力があるうちにやめないといけない。だから、キッパリと引退しました」

やめた後は、

「新兵の訓練教官にならないか?」

と誘われたが、訓練だけして自分は戦場には行かず、リスクを負わないのは性に合わないから断った。

「傭兵をやめたときに、

『この人生における、僕の仕事は終わった』

と思いました。

『この命でやるべきことは終わった』

と言ったほうがいいかな?

そして残りの人生は流れるままに生きよう、と思いました」

とりあえず日本に帰国することにしたが、とくに帰国後の不安はなかった。

オシャレなカフェに行くこともあった傭兵時代

「そりゃミャンマーの基地にいたほうが不安ですよ(笑)。日本で生活してても銃弾は飛んでこないし、まあなんとかなるだろう……と思いました」

日本に帰ってくると、古くからの知り合いに、

「お前、必死になって傭兵やってきたかもしれないけど、何も残ってないじゃん? お金も家族もないだろ?(笑)」

と馬鹿にされた。

「でも僕にとっては“何も残してないこと”をむしろ誇りに思ってるんです。自分がこうと決めた道を100%、余力を残さずに生きてきました」

高部さんは「流されるまま生きよう」と考えたが、それは別に捨て鉢になったわけでもないし、ダラダラ生きようと思ったわけでもない。来る仕事は受けたし、真摯に応えるつもりだった。

現に傭兵として20年近く活動したという実績は、非常に希少で価値があるため、たくさんの仕事が来た。

まずは、軍事アナリスト、軍事ジャーナリストとしての仕事がある。

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