高部さんはミャンマーではカレン民族解放軍に加わり、活動した。アフガニスタンで傭兵デビューした高部さんだったが、イスラム教徒ではないので感情移入がしづらかった。
それに比べミャンマーは、指導層こそキリスト教がメインだが、一般人の7割は仏教徒だった。また第二次世界大戦で日本兵が行っていた地域もあり、比較的日本人に対して好意的な人も多かった。
1990~1994年、1995年~2007年と合わせて16年間、高部さんの傭兵人生では最も長く活動した。
先にも書いたがミャンマーでの戦いは、給料は出ない。着るものを買うくらいしか出費はないが、それでもお金は減っていく。
ミャンマーには雨季と乾季があり、雨季には車両が走れなくなり、敵も味方も補給がしづらくなる。結果的に、戦闘は散発的になる。
「1年のうち半分は動きがないので、雨季の間は日本に帰ってきて働くことも多かったですね」
とにかくギリギリまでミャンマーにいたため、日本に帰ってきたらもう手持ちのお金が5000円しかないときもあった。
キャベツ1個を買ってきて、油で炒めて、醤油をかけて食べる日が続いたこともあった。
「帰ってきて知り合いに会うと、みんないいもの食べて、いい女と遊んで、いい自動車乗ってました。彼らに、
『よくそんな生活してるね?』
って馬鹿にされましたけど、逆に僕からしたら
『お前らこそ、よくそんな退屈な生活をしていられるな』
と感じていました」
それでも戦場にいると、飢えるし、汚いし、肉体的にもきつい。日本に帰りたいと思うこともあった。
日本に帰ってくるとつまらなくなった
だが、日本に帰ってきて2~3日がすぎると、つまらなくなった。まるで生きている感じがしなくて、早く戦場に戻りたいと思った。
「例えば1000円払っていいもの食べるなら、毎日キャベツでもいいから、1日でも早くお金をためて戦場に戻りたかったですね」
戦場は死ぬ確率が非常に高い。
高部さんも自分が死なずに済んだのは、運がよかったからと認識している。
戦場に憧れる人は少なくない。だが実際に戦争に行く人はごくわずかだ。それは戦場へ行くとリアルに死んでしまうからだ。
高部さんは、死とどのように付き合ってきたのだろう?
「周りで仲間は死んでいきますから、いつかは自分にも順番が回ってくるかもしれないと覚悟はしてました。ただあんまり重たくは考えてなかったですね。『運が悪ければ死ぬな』ってな感じです。『死ぬのも契約のうち』くらいに思ってました」
後輩の日本人の兵士が深刻そうな顔で、
「これが最後の日本かもしれないと思って、両親の作ったご飯を食べてきました」
としみじみと言っているのを聞いて、高部さんは少し呆れたという。
「僕たちは徴兵じゃありません。『好き勝手にやってきて戦争してるのに、深刻な顔で何を言ってるの?』って思いました。死ぬのが嫌だったら日本にいたらいいんですよ」
高部さんが傭兵になって10年後、世話になっている出版社経由で日本から連絡が入った。連絡をよこしたのは、高部さんの母親だった。
「『1年前に父親が死んで、今度納骨するからよかったら帰ってきたら?』って言われました。それで久しぶりに帰ることにしました」
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