56歳・元日本人傭兵の何とも壮絶で快活な半生 20年近くミャンマーなどで命を賭け戦ってきた

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「高校2年生で航空学生という制度があるのを知りました」

航空学生とは、航空自衛隊の戦闘機のパイロットなどを養成する制度だ。非常に狭き門で、高部さんが入隊したときは、結果的に3000人が応募し、68人しか入隊できなかった。

「試験は全教科まんべんなく出題されました。マークシート試験ですが、英語と数学だけはそれ以外に筆記試験もありとくに重視されていました。

学校では私立文系コースで理系の授業がなかったため、教科書を買ってきて独学で勉強しました。理系の先生のところへ行き、教えてもらったりもしました。ただ、学力の試験もあるけれど、実際には適性検査のほうが重要視されているというのがもっぱらの噂でした」

適性検査とは、飛行機を操縦する適性を測る検査だ。身体検査、知能テスト、性格検査、そして実際に飛行機に搭乗しての試験と、徹底的にふるいにかけられる。

「なんとか合格することができました。もし合格しなかった場合、一般大学に進んでから航空自衛隊に入るなど考えていました。ただ航空学生になるのがパイロットになるいちばんの近道でしたからうれしかったですね」

1年生のときに基礎教育を学び、2年生では航空力学など飛行機に関する学問を学ぶ。その間、毎日ハードな体育訓練があった。

1日10~20キロメートル走るのは当たり前

「1日10~20キロメートル走るのは当たり前でした。教官に

『10キロ50分で走ってこい』

って言われて、これはかなり楽なペースなので内心喜びながら帰ってきたら

『はい、ウォーミングアップ終わり。10キロ40分で走ってきて。タイム切れないヤツはもう1本』

って言われました。みんな死にものぐるいで走って、なんとか40分を切って戻ってきたんですけど教官は

『はいクールダウンで10キロ走ってきて』

って言いました(笑)。そんなのが日常でしたね」

体力と気力は徹底的に鍛え上げられるが、耐えきれず辞める人もいた。2年の卒業時には、10人がいなくなっていた。

そして飛行機の訓練に移行したのは、58人だった。

「僕はジェット機の訓練までいっていたのですが、G(重力加速度)で腰を悪くしてしまいました。それで自衛隊を辞めることになりました。あと1年で戦闘機に乗れるところまで来ていたので、すごく残念でした」

残念だったが、だが普通に就職する気はなかった。それならば「傭兵になろう」と思った。ただ、当時は現在と違いインターネットで情報を調べるわけにはいかなかった。誰に聞いても、

「そんなのは映画の中の話だよ」

と馬鹿にされた。

高部さんは自動車工場で期間工として働いたり、ヨットハーバーでアルバイトをしたり、ボーリング(穴掘り)の仕事に就いたりと、さまざまな仕事を渡り歩きながら、傭兵になるチャンスを探っていた。

そんなある日、とあるフリージャーナリストがアフガニスタンに行った経験をまとめた本を目にした。

「『この人に連絡取ったら傭兵になる方法がわかるかもしれないな?』と思い出版社に連絡をとりました。すると『出版記念パーティーがあるからよかったらおいで』と誘ってもらえました」

次ページ門前払いを食らうがほんの少しの情報に食らいつく
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