これはユーザーにとって、関心の向かう事件が視聴率によって決められてしまうワイドショーと非常によく似ている。
かつて(残念ながら今もそうだが)「マスコミが取り上げるから重大な出来事に思える」という影響力が作用していたとすれば、これとまったく同様に「ソーシャルメディアで話題沸騰中のものだから重大な出来事に思える」という影響力が作用する構図を反復しているだけにすぎない。
社会的に重大などうかを冷静に選り分けていない
ここには、多くの人々に伝えなければならない社会的に重大な出来事かどうかを、常識的な視点で選り分ける冷静なフィルターは存在しない。強いて言えば、関心の拡散性と、リターンの可能性にかかっている。
例えばナイキのCMであれば、電凸(抗議・非難の電話)や不買運動の呼び掛けといった圧力に即効性がありそうかどうかというところである(ナイキに関しては、すでに2018年に差別問題を啓発する広告がアメリカで制作されており、炎上に伴うバイラル・マーケティングの効果は織り込み済みといえる)。ソーシャルメディアが「自分の主張を売り込む」舞台と化し、あわよくば謝罪などの譲歩を引き出して、手軽に達成感を得ようとする試みだ。リアルな社会で飢えていた「力の誇示」に束の間の満足を覚えることだろう。
だが、ハンセンがいうように奪われているのは、実生活と何の関係もないネットの嵐に苛立ち、スマホから離脱できない「あなたの注目」なのだ。
しかも、そうした過程を経て「ただの燃料」となった出来事は、(結果としてコンテンツの宣伝に加担するような行為になるとしても)退屈しのぎのネットリンチや、ポジショントークの材料にされて、最後はゴミ箱に捨てられる運命にある。
犠牲となるのは、ネットの嵐に費やされた貴重な時間もそうだが、中長期的には社会を変えようとする地道な活動の大切さである。
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