ミステリで「怪しい人物」が犯人ではない根拠 読者が読み慣れると当たってしまうことも
「フーダニット」という言葉を、どこかで聞いたことがあるだろうか。
これは「Whodunit(Who done it)」のことで、「犯人は誰か」という謎を主眼としたミステリを言う。
本格ミステリのジャンルでは、フーダニットをフェアに執筆した証として、解決編の前に、
既にすべての手掛かりは提示された。与えられた手掛かりを論理的に組み立てれば、必ず犯人に到達できるはずである。○○を殺したのは誰か? 読者諸賢の健闘を祈る。
というような形で、「読者への挑戦」が挿入されることがある。『ローマ帽子の謎』から始まる、エラリー・クイーンの「国名シリーズ」には、ほとんどこの「読者への挑戦」が入っているし、『殺人者は21番地に住む』(S=A・ステーマン)では、「まだ犯人がわからない読者へ」というなんとも挑発的な煽(あお)りが、2度も挿入される。
複数回の挑戦が入る作品は他にもあるが、『双頭の悪魔』(有栖川有栖)はその究極系、なんと作中、3回にわたって「読者への挑戦」が挿入される。しかも、単に回数が多いわけではなく、それぞれにきちんと意味がある。どういうことなのか、それは是非実際に読んで確かめていただきたい。
メモを取ってないと細かい記憶は維持できない
「読者への挑戦」は、ミステリにおける様式美の1つでもあるし、そこで立ち止まって犯人を推理してみて欲しい、という作者からのリクエストでもあるだろうが、実際に手を止めて推理する人は、案外少ないのではないだろうか。
理由の1つは、メモでも取っていない限り、そこまで細かい記憶が維持できていないこと。そしてもう1つは、先を読みたい欲求が勝(まさ)ってしまうことだ。
もちろん、実際の事件ではないから、そこで推理しなかったとしても、間違った犯人を指摘したとしても、何ら問題はない。
ところが、「ちゃんと推理しないと、犠牲者が増える。それどころか、自分も犠牲者になってしまう」というミステリが存在する。「かまいたちの夜」(我孫子武丸/スパイク・チュンソフト)というゲームだ。
サウンドノベルと呼ばれるこの作品では、画像やBGMに彩られた画面上の文字を読みながら、物語を追いかけていく。プレイヤーは主役として登場人物の1人となり、その視点で物語は進む。だから、プレイヤーとゲームの主人公が見聞きしたことはイコールになっている。
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