ミステリで「怪しい人物」が犯人ではない根拠 読者が読み慣れると当たってしまうことも
こうした謎が設定されると、誰が犯人なのか、以外にも興味が向くし、それこそ当てずっぽうで犯人が分かったところで、作品の面白さが殺(そ)がれることもない。そして、フーダニットとハウダニットのハイブリッド的なミステリが隆盛を極めていくのだが、ここでまたしても壁に突き当たってしまう。
ミステリは、「与えられた手掛かりを論理的に組み上げれば、矛盾なく唯一の真相に到達できる」ようになっていなければならない。謎解きは、自然界の法則を超えられないのである。
ドアを通り抜けられる人間や、念力(サイコキネシス)を使える人間がいれば密室はいかようにも作れるが、それでは読者は納得してくれない。
時間的に不可能な犯行にはトリックがある
ジョン・ディクスン・カーの「密室講義」をざっと眺めてもらうだけでも、「世の中には、こんなに沢山密室を作る方法があるのか」と驚くだろう。そして今現在も、「密室」を売りにした新刊は多数刊行されている。
しかし、たとえ科学技術の進歩によって密室を作る方法が増えたとしても、自然の法に逆らわず作れる密室には限りがある。移動手段にしても、瞬間移動やワープができるわけでもなし、時間的に不可能な犯行には、裏に何らかのトリックがあるのだ。現代科学では、人力で空間は歪められないし、時間も操作できない。結果、ハウダニットにも、限界が訪れるのだ。
この辺りから、謎解きの面白さを追究する道は、大きく2つに分かれたように思う。
「ホワイダニットWhydunit(Why done it)」という方向と、「叙述トリック」という方向だ。この両者は、現在の大きな流れと言っていいだろう。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら