ミステリで「怪しい人物」が犯人ではない根拠 読者が読み慣れると当たってしまうことも

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途中途中に選択肢が現れ、そこで適切な判断、推理を行っていかないと、惨劇を止めることはできず、自分もその1人となってしまう。適当にプレイしているだけだと、永遠に事件は解決しないし、それどころか、生還も覚束(おぼつか)ない。

ゲームブックという形式もあるにはあるが、複雑に絡み合う選択肢と分岐はさすがに処理しきれないだろうし、その気になれば先に結末を読んでしまうこともできるから、あまり向いているとは言えない。

「自分がしっかりしないと事件が解決しない」というプレッシャーを、これだけ直(じか)に感じさせる作品は、この「かまいたちの夜」をおいて他にないだろう。

話が逸(そ)れてしまったが、かつてのミステリは、ほとんどがこのフーダニットで、物語中で、警察や探偵が犯人を突き止めるものだった。探偵と犯人の頭脳戦が、そのまま読者と犯人との頭脳戦であり、等しく与えられた手掛かりを基に、探偵と読者のどちらが先に真相に到達するか、という競争でもあった。この場合、すべては小説内で完結する。

最初に犯人を宣言してしまう小説もある

ところが、ミステリというジャンルの発展と共に作品が量産され、この「フーダニット」のヴァリエーションにも限界が生じる。限られた登場人物と舞台設定で、「誰が犯人か」という謎と解決を考えるのだから、そうそう手数が増えるはずもない。

そんな中で生まれた変化球が「1人○役」で、最も有名なのは、セバスチアン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』だろうか。下手なあらすじ解説よりも、オビの「わたしはこの事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、犯人なのです。」という一文が、この作品がどういうものか雄弁に物語っている。

こういった趣向の作品には、「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、そしてどうやら、被害者にもなりそうだ。」という一文で始まる『猫の舌に釘をうて』(都筑道夫)や、冒頭で「この推理小説中に伏在する真犯人は、きみなんです。」と宣言してしまう、『仮題・中学殺人事件』(辻真先)などもある。

これらは、オビやカバーの内容紹介で書かれていたり、読み始めればすぐに分かることなので作品名と共に紹介したが、他にもタイトルは伏せておくが、「読者=犯人」の超有名作や、「1人6役」なども存在する。

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