さらにこれと関連するが、20世紀までは牝馬はレースで走るよりも母親となってからの繁殖牝馬としての仕事のほうが重要で、目いっぱいレースを走ることなく、早く引退することが多かった。牡馬を倒さずとも「牝馬最強」であれば十分市場価値が得られたからであった。
これが近年変わった。欧州の「競馬不況」や、世界から馬を集めるための一流レースの賞金高騰(欧州の賞金は凱旋門など一部のレースを除くと、今も昔も重賞でも驚くほど少ない)などで、レースを続けることの意味ができたことなどがある。
私は、やはりレースは能力検定に過ぎず、牡馬も牝馬も繁殖としての価値だけが重要だと思っている。よって、牡馬も牝馬もレースを使いすぎて事故になることのないことを望む。
しかし、その私でもレースをすることの意味があると思うのは、生物学で論争になっているのだが、「獲得形質が遺伝するのではないか」という点にかかわるからだ。このことは私が競馬をもっとも熱心に観察していた高校生時代(1985年前後)に考察した。厳密に言うと、遺伝子自体が変わるわけではないが、鍛えれば、とりわけ短距離レースをより多く使うことでスピードの遺伝子が活性化されて遺伝しやすくなるのではないか、ということだ。あるいは遺伝したものが「スイッチオン」の状態で遺伝されるのではないか、ということだ。
エリザベス女王杯はラッキーライラックの単勝で
この獲得形質が、牝馬から牝馬に伝わりやすい要素があるのではないか。そうだとすれば、年々牝馬が厳しいレースを多くすることで、獲得形質のレベルが高まることによって、より強くなる理由とも言えそうだ。
現在のところ、生物学の領域でどこまで有力説であるかは、私には議論できない。だが高校生のときに、競馬をきっかけに生物学者になっていればノーベル賞も夢ではなかったかもしれない。それよりもギャンブラーの心理に自己嫌悪から関心を抱きすぎたため、しがない行動経済学者になってしまった。
この週末はそれを取り返すためにも、エリザベス女王杯が引退レースとなるラッキーライラック(8枠18番、クリストフ・ルメール騎手騎乗)に託したい。名種牡馬オルフェーヴルの遺伝子を広く残す存在になってほしい。単勝で勝負だ。
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