今時の高校生が「制服での管理」に抵抗が薄い訳 「服装の乱れは心の乱れ」神話が復活している
教育現場でこうした状況が疑問も抱かれず受け入れられる風潮に筆者は失望する。あまりにも手取り足取り的である。教育機関の理念や目標にありがちな「自主自律を育む」ことにはならない。もっと生徒を信じ、生徒の主体性を尊重すべきではないか。
実際、生徒の主体性を望んだ学校長がいた。京都市立堀川高校は1999年に制服自由をやめて制服を導入する。2003年、校長に荒瀬克己氏が就任する。同校は京都大など難関大学の合格実績を飛躍的に高め、「堀川の奇跡」と称された。荒瀬校長は制服についてこう話している。
「平成11(1999)年の新入生から、それまで私服だったのを制服に切り替えたのですが、私は私服に戻したらいいのではないかと思っています。以前にそう生徒たちに言ったら、『絶対制服ですよ』と返されました。それなら秋田高校のように、制服があって式や対外的な行事では着用するが普段は制服でも私服でもよい、というようにしたらどうかと思いますが、さてどんな返事が返ってくるでしょうか」(同校ウェブサイト 2012年3月17日)
家計を「人質」にするブラック校則も
生徒が「絶対制服」を主張する理由は、管理されたほうが楽ということもあろうが、通学=私服という固定観念から脱しきれなかったとしたら、さびしい。荒瀬氏は私服になったとき、生徒がどのような主体性を発揮するかを知りたかったのだろう。その後、荒瀬氏と生徒のやりとりは不明だが、いま、堀川高校は私服には戻っていない。
生徒の主体性もなにもない。制服を管理の道具という発想でしか見ていない学校がある。
制服着用に細かなルールを設け、それに反すると厳しいペナルティーを科していた。関西地方の某公立高校である。
違反すると学校預かりのうえで再度購入しなければならないルールとしており、校則を守らせるために家計を突いてくる。生徒にとっていちばん弱いところだ。脅しと取れなくもない。管理のために罰金をちらつかせるのは、教育機関になじむものではない。
「改造」を正す教育を放棄した、制服のブラック校則のように思う。
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