ゼンショーが抱く、あまりにも壮大な夢 ゼンショー・小川社長が語る経営哲学(1)
なんでシンプルか、安くできるからですよ。先ほどの工業簿記的に言えば、製造原価が安いから、手間をいろいろかけたら製造原価が高くなるんですよ。 そうじゃないだろうと、同じポジションだと。米国におけるハンバーガーと日本における同じポジションだと。だから、まだまだマーケットは開拓できるんだと いう論旨でもって、銀行に対して説明してきたわけですよね。
吉野家から教わったんじゃなくて、そういう中で、自分として、そういう普遍的なベーシックな商品ではないかと、当時思ったのは僕だけなんですよ。ほ かの人たちは攻勢にさらされて、牛丼はもうピークアウトじゃないかと、200店でどん詰まりじゃないかと言われて、みんなシュンとしちゃったわけですよ、 社内は。言っちゃ悪いけど、僕一人で銀行の強面に対しても、論陣を張り、やってきたわけですよ。僕としては、牛丼保守本流は俺だと言う意識が非常に強いで すよ。
――松田さん自身も、しょぼんとして。
そうですよ。何でかというと、当時の吉野家というのは、資本金2400万円だったんですよ。ピーク時の売り上げが167億円あったけど。3分の1 は、さっきおっしゃった新橋商事が持っていて、地主なんですけど、別に地主に株主になってもらわなくていいじゃないですか、松田さんとしては。
戦友だったんですよ。松田瑞穂さんと当時新橋商事の社長をやっていたトミタさんという方は。3分の1の株を持ってもらっていたと。そこまでならまだしも、今度は松田瑞穂さんの奥さんの親戚に3分の1持たせたわけですよ。それを返してくれだとか、係争していた、もめていた。
要するに資本政策がなってない。なってないと言ったら悪いけど、客観的に見ればね。経営が非常に悪くなったので、新橋商事に頼ったわけですよ。一時 的に6億円融資してもらって、そのときに担保で松田瑞穂さんの3分の1の株を新橋商事に入れたわけですよ。新橋商事は結局3分の2の株を持ってたわけですよ。
吉野家倒産の深層
――完全にヘゲモニー(覇権)、マジョリティーを握ったわけですね。
その過程で、僕はプロパーですから、自力で再建したいと銀行と交渉もしていたわけですけど、新橋商事から、当時常務取締役のイデさんという方が来ら れて、吉野家の経営企画室長ということで、大株主として心配だからということで、来られた。経営企画室を軸に再建計画を作るということで、5人メンバーを 選び、その1人に僕も選ばれて、再建計画をやったわけですね。
徹夜の連続で、急ぎますから。当時、米国デンバーに7店舗、吉野家の店を出していて、それからカリフォルニアにも何店か出していて。国内再建計画は作って、銀行にも説明して、僕は当時の第一勧銀、東海銀行がメインでしたから、説明して。
向こうも国内においては、小川さんの言うような再建計画でいけるでしょうと、思いますと。だけど、米国が訳わかんないと言われまして、米国の再建計 画も出してもらわないと、取り組めないと言われて、僕と弁護士と会計士と3人で、米国に1週間調査に行って、大変でしたけど、再建計画を作って帰ってきた わけですよ。
昭和52年に安宅産業がつぶれたんですよね。米国で当時1000億円くらい食らったんですよ。当時の1000億円としたら、今の感覚でいえば10倍 くらいで、ものすごい強烈だったんですね。金融機関、都市銀行にとっても強烈で、米国は怖いというのが、当時の都市銀行にあって、だからそういうリアク ションになったんですね。
それで説得したんだけど、やっぱり米国が、ということで、端折って言うと会社更生法へと行かざるを得ないという流れになったんですね。
――モノの本によると、松田さんが途中で心変わりして、新橋商事と対立する形で会社更生法を申請しようと、そういう記述になっているんですが。
当時は末期症状ですから、いろんな動きがありましたよね、そういう風になると。僕としては、基本的にはいける業態だし、再建できる、すべき、したい と、まずそれですよね。それには、3分の2の株を押さえている新橋商事の理解と協力を得ながら再建をやろうと。確かに新橋商事も不動産管理会社ですから、 60年で回収するというようなビジネスモデルを日々やっていたわけですよ。
外食産業というのは今日いい物件出たら、今晩お前調べて来い、と。当時のビルトインの物件と言うのはそういう感覚なんですよね。そうしないと、いい 物件が取られちゃう、ディシジョンが早くないとダメなんですよ。こっちもそれがストレスだったんですよね、ディシジョンが遅いなと。