これがゼンショー流の成り上がり術だ ゼンショー・小川社長が語る経営哲学(2)

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小川賢太郎(おがわ・けんたろう)●1948年石川県生まれ。68年東京大学入学。82年ゼンショー設立
「週刊東洋経済」2010年11月27日号掲載の「トップの肖像」は、外食日本一の座にのぼりつめたゼンショーの小川賢太郎社長を取り上げた。この記事をまとめるために行った小川社長へのインタビューは2回、合計6時間以上に及んだ。
昨今、ブラック批判にさらされるようになったゼンショーだが、このインタビューを読むことで、小川社長のブレない経営哲学、生き様が手に取るように伝わってくるはずだ。
ノーカット掲載版の第2回。
第1回 「ゼンショーが抱く、あまりにも壮大な夢」こちら
第3回 「こうしてゼンショーは危機を乗り越えてきた」こちら
第4回 「労働組合はアタマが古すぎる」こちら

社員3人で創業

――新橋商事の部下の方とともに、いよいよゼンショー創業と。

部下3人と、4人で。資本金500万円、何とか僕が集めて。1982年6月31日に、会社を登記したわけですね。

――牛丼というよりは、まずは弁当から始められた。

500万円で始めたんで、イートインのお店は1店もできないですよね、おカネがなくて。弁当屋なら、箱が小さくて設備投資が小さくて済みますから。1号店は6坪の店で。6万円の家賃で。

僕の自慢は、普通は1号店から作るんですけど、そうじゃなくて、カネがないくせに、本部から作ったんですよ。われわれは飢餓と貧困をなくすために、チェーン化をやっていくんだと、チェーン店を作っていかなきゃなんない、それも世界に作っていかなきゃなんない。その頃は「フード業世界一」というスローガンを掲げて、カネないんだけど、4万5000円で発泡スチロールの板に、「フード業世界一」って書いてもらって、看板屋に。

事務所はその代わりにカネかけないで、45坪の倉庫を15万円の家賃で借りたんですよ。生麦の駅前から4分くらい歩いたところ、トタン葺きの汚い2階建てで、そこの1階の奥を角材とベニヤで自分たちで仕切って、ここが本部だと。

電話がないと商売できないから、当時の黒いでかい電話を1個乗せて、そこから始めたんですよ。そこから500メートルくらいのところに、6坪の店を6万円の家賃で借りて。弁当屋からスタートして。

2年半くらいで7店舗作ったんだけど、このスピードだと、世界一になるのに3万年くらいかかっちゃうなと。米国はマクドナルドやケンタッキーフライドチキンなんてのはガンガン伸びていたのに。

ということで、シンプルな、さっき言ったように、俺が牛丼というものの普遍性を言ってきたし、やっぱりこれじゃん、ということで、牛丼の店を出したわけですよ。逆に言うと、ようやく出せるようになった。牛丼の店といったって11坪くらいの小さい店だけど、それでも15席くらいの店を作れるようになった、ようやく。

得意なことで失敗するやつは多いって当時から偉そうに言っていたんだけど。牛丼については、立地についてだって、知り抜いていたつもりなんだけど、1号店で失敗して(笑)。11坪の店を月商500万円のつもりで出したんだけど、どうしても330万円しか売れなくて、いくら家賃11万でも、損益分岐点が300万円くらいなんですよね。

そうすると、プラスマイナスを行き来して。こんなのやっていてもしょうがねえと、半年で撤退決めて。だけど、500万円投資していましたから、当時店舗造作を買い取る会社があって、そこに電話して470万円で買い取ってくれたんですよ。それを買ってくれたのが、京都から来た茶月、おすし屋さん。

――よく買ってくれましたね。

でしょ。だから、茶月のほうに足を向けて寝れない。

――何で失敗されたんですか、吉野家の経験がおありだったのに。

やはり視野が狭くなっていたんですよ。生麦で本部を構え、1号店を生麦で出し、2号店を川崎という風に展開してたんだけど、どうしてもやはり、視野が狭かった。

必死にやって、セブン-イレブンって隣のおばちゃんから言われてたんだけど、朝7時から夜の23時過ぎまで働いていたわけですよ。生麦の駅っていうのは、当時、乗降客が3万5000人だったんだけど、数字から見ればアンダーだったんですよね、だけど続々歩いている人間を見ると、いけるじゃないかと。家賃も11万円だし。でも理屈通りの売り上げしかいかなくて。

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