ゼンショーが抱く、あまりにも壮大な夢 ゼンショー・小川社長が語る経営哲学(1)
それはそれとして、矛盾が露呈して、いちばん多感な学生というのは、やはりそういう矛盾に対して造反したわけですよ。僕が入ったのは東大だけど、入った頃から医学部紛争、要するに医局制、教授が天皇陛下でさ。封建的な体質をもとに、若い医者は何も言えなくて、そういう矛盾の中で医療をやらなきゃいけないということ、そういうことに対する不満とか、新しい時代、新しい仕組みを作らないと。
そして、全共闘運動というのが起きて、大学というのは何なんだという問いかけも自ら課して。東大なんか特にエリート養成校ですから、結局、自己否定的なね、社会に出たら旧体制温存派に回るんだろ、と。先輩である人たちが60年安保やったわけですよ。やったんだけど、学園に帰れば、元のエリート予備軍であり、その後どうなったかと言うと大部分は順調な。学生の頃、安保闘争やったよとか、ビール飲みながら、そういう風になっちゃったんだけど、それはないだろうと。これは歴史の進歩だと思いますけどね、8年前の先輩たちのことを総括して、なんだったのかと、ということもあった。
根底的に物事を考え、議論し、という時代でしたよね。そういう中から、僕もそうとう深入りして、革命をやらなきゃいかんと、国の仕組みを根本的にたたき直さないと、半端な改革じゃすまないな、ということでやった。
当時の思想というのは、マルクス・レーニン主義ですから、いわゆる反体制マルクス・レーニン主義によれば、革命が必然であって、革命の主力というのは 労働者階級であるプロレタリアートとしてね、方程式が決まっているわけだ。となると、日本における労働者の組織化をやらなければいかん。主力である労働者階級をいかにして組織し、決起する、ということがメインテーマなわけですよね。
労働者階級を組織するに当たり、魚を釣るには魚じゃダメだろうということで、いちばん厳しい労働条件のところが一番いいだろうということで、港湾労働者になったわけです。横浜港で。
ただ、ルンペンプロレタリアートになっても仕方がないので、マルクス主義というのは厳格だからね。ルンプロに対しては、屁のカッパで。組織された労働者に価値があるわけであって、横浜港で1000人くらいの荷役会社の中に何とか潜り込めて、時効だから言うけど(笑)。正規社員として ようやく組織労働者の一角になれたわけですよ。
1975年が歴史の節目
――東大を中退して港湾労働者というのは、ちょっと、いっぱいいた活動家の中でも、そこまでやる方というのはあんまりいませんよね。
あんまりいない。いないわけではないですけどね。
それはそれとして、1977年頃、具体的に言うとね、歴史には節目というのがいくつかあるけど、世界にとっては1975年が一つの節目だと思っているのね。ベトナムの傀儡政権のやつらが、とうとうアメリカ大使館に逃げ込んで、屋上から米軍のヘリにしがみついて逃げたと。
だけど、心せねばならないのは、試合に勝ったというときが頂点である場合がある、ということ。僕らの当時の側からすると、あれほど米国のベトナム侵略戦争に反対し、云々かんぬんやって1975年に勝ったわけだよね。最強の軍隊を撃退したわけ。だけど、そのときが節目だった。歴史が新たなページに入ったということだよね。
展望がないなと、社会主義革命というのは。1975年を回ったところで、僕としては。レーニンの革命というのは、そもそもパンと平和だから、逆に言えば、そういう情勢でのみ、権力奪取できる方程式なわけだよね。そういう情勢下でもって可能な権力奪取の方程式だったんだけど、戦争が世界的に見れば終わって、パックスになったわけ、平和な時代に。
そうすると、マルクス・レーニン主義方程式というのは終わったなと、できない。やっていればわかりますよ。ボール蹴っていれば、この試合、勝てるのかどうかわかるでしょ(笑)。社会主義によって飢餓と貧困をなくすことは、できないということで、資本主義の勉強を始めた。資本主義の勉強はしたことないから。