「応仁の乱」から京都が復興を遂げた意外な理由 ザビエルも驚いた!「堺の街」の圧倒的経済力

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高度な自治を行っていた都市としては、和泉国堺が有名である。この町は36人の会合衆(豪商)の合議制によって運営されていた。

堺は古代からの要地で、良港に加え熊野街道が走り、京都にほど近いので中世に飛躍的な発展をとげた。室町時代には、幕府の実力者細川氏と結んだ堺の商人は、日明貿易で大いに稼ぎ、その後は琉球や東南アジアへも積極的に貿易船を出した。

フランシスコ・ザビエルなどは、「堺は日本の最も富める港で、国内の金銀の大部分が集まるところだから、ここに商館(貿易センター)をつくるならポルトガルに大いなる利益をもたらすだろう」と本国に書き送っている。

また、莫大な持参金を携えた堺の豪商の娘が京都の公家さんに嫁ぎ、逆に貧乏公家の子弟が多数、堺の豪商の養子となったという伝承もある。

このように室町時代から戦国時代の堺には、有り余る財力を有する豪商たちがゴロゴロ存在したのだ。彼らは、得た富を来世のために寺院に寄付をしたり、寺社を建てたりした。また、「大坂は食い倒れ、堺は建て倒れ」という語が残るように、屋敷に金をかけて贅をこらした造りにした。

堺の街を屈服させた織田信長の凄さ

しかし、一番多く資本を投下したのは、町の防衛に関してであった。ある外国人宣教師は、「堺の街は東洋のベニス(ヴェネチア)のように濠や塀で守られた自治都市である」と述べているが、豪商たちはその財力で町の周囲に深い堀をうがち、傭兵を雇って町の治安を確保したのである。

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例えば、堺の豪商である日比屋了慶(ひびや・りょうけい)は、300人の部下に海賊船を撃退させたといわれており、おそらく豪商たちは町全体で数千人の武力を抱えていたと思われる。これは強大な戦国大名に匹敵する数だ。同時に、近隣の戦国大名に金銭を提供し、用心棒のような役割をさせていたらしい。

そんな自由都市「堺」を破壊したのも織田信長だった。上洛して室町幕府を復活させた信長は、堺に対して二万貫の矢銭(軍資金)の提供を求め、要求に従わなければ軍勢を派遣する構えを見せた。

堺の豪商にとっては、これくらいの金額は大金とは言えなかったし、信長の要求に応じることは、これまでの自治政治を放棄し、信長の軍門にくだることを意味した。しかし最終的にかなわないと判断し、堺は信長の直轄領となったのである。

河合 敦 歴史研究家

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かわい あつし / Atsushi Kawai

歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆・監修のほか講演やテレビ出演も精力的にこなし、わかりやすく記憶に残る解説で熱く支持されている。著書に『日本史は逆から学べ』(光文社知恵の森文庫)、『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)、 『禁断の江戸史』(扶桑社新書)などがある。

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