「応仁の乱」から京都が復興を遂げた意外な理由

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なぜ京都は「応仁の乱」による荒廃から立ち直れたのか?(写真: FUTO/PIXTA)

 

戦国時代誕生のきっかけとなった「応仁の乱」(1467〜77)。日本史上屈指の大乱のダメージから、京都はなぜ大復興を遂げることができたのか? 歴史研究家の河合敦氏による新書『繰り返す日本史』より一部抜粋・再構成してお届けする。

「京都大復興の立役者」は誰か?

被支配階層が団結によって惣村や寺内町をつくって生活の安全を図り、逃散や土一揆、一向一揆によって己の要求を貫徹した現実を紹介してきた。じつは、商売やもの作りで生活している人々も、室町から戦国時代にかけて同じような状況をつくっていた。

例えば京都である。応仁の乱で京都の中心部は戦場になり、大きな被害を受けた。それを復興させたのは、町衆と呼ばれる豊かな商工業者たちだった。市中には彼らが運営する「町」という自治組織が続々と誕生していった。地方の荘園における惣村と同じように、町衆は町掟(規則)をもうけて自検断(独自の裁判)を行い、町の出入り口には木戸をつくって防御機能を高めた。

町は、さらにいくつか集まって町組となり、町組は町衆から選ばれた代表である月行事によって運営・統括されるという自治体制が京都に誕生した。1500年には、約30年ぶりに祇園会を開催、三十六基の山鉾(やまぼこ)が巡行して京都の再生を世間にアピールした。

ちなみに町衆の多くは日蓮(法華)宗の信者で、互いに信仰で深くつながっており、そうした彼らの団結を法華一揆と呼んだ。

天文元年(1532年)には、一向宗(浄土真宗本願寺派)の拠点だった山科本願寺を焼き打ちし、京都から一向門徒たちを追い出している。

しかし天文5年、比叡山延暦寺の僧兵たちが戦国大名六角氏と結んで京都へ乱入、日蓮宗の寺院をことごとく焼き払い、法華一揆(町衆たち)を京都から追放してしまったのである。この天文法華の乱により、せっかく復興した京都の町は、応仁の乱のとき以上の広い範囲で延焼してしまった。

ただ、この事件から数年後、町衆(日蓮宗門徒)らは京都に舞い戻り、ふたたび町の自治を始めた。だが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を再興したことで、町衆たちの高度な自治は終わりを告げたのである。

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