月収0円だったので、収入は全部アルバイトで稼いだ。居酒屋のチェーン店で働いたが、かっこいい男子女子が集まっていて、みんなでスノーボードに行ったり、ダンスをしたり楽しい日々だった。
お笑いのライブに行けば、仲間たちがいてこちらも充実していた。
「高校卒業までが暗黒期でしたから、毎日が天国じゃん!! って思ってました。まだ21~22歳だから世間的に、好きなことしてて許される歳でしたし。両親も『やっと人間として生き始めてくれた』と思ったのか、黙認してくれていました」
だが、お笑いのほうのレベルはなかなか上がっていけなかった。
ブルマネタに限界を感じた後は、モノマネ番組のオーディションに出た。普通の番組のオーディションは事務所が選出してしまうのだが、モノマネ番組は受け口が広かったからだ。
「君、背高いんだし江角マキコのモノマネとかどう? って言われたら、次の週にはショムニの衣装用意して脚立担いでスタジオに行ってました。根が真面目なんです」
ちょくちょくテレビには出られるものの、なかなかうまくいかないまま26歳になった。
母親に
「もう、そろそろお笑いはいいんじゃない?」
と諭された。紺野さんは
「何を馬鹿なことを言ってるの? これからだよ!!」
と反論した。しかし母の説得は続いた。
「『結婚してほしい』『子供産んでほしい』『医療事務の資格を取って働いてほしい』って毎日のように言われました。それで、限界になってケンカになりました。お互いすごい泣いて、申し訳ないけど母親の期待には応えられないと宣言しました」
その頃には、芸人1年目のような幸せ感はなくなっていた。徐々に後輩の中にも売れる芸人が出始めてきた。
「……あれ? 一生売れないかも? いつか売れるって信じてたけど、そんな確証どこにあるの?」
と不安になってきた。
そんな悩める日々を過ごしていた頃、コージー冨田さんが主催するなぞかけのライブに呼ばれた。
なぞかけで下ネタが大ウケ
もともと、なぞかけは好きで、1分半なんでもいいからとにかくたくさんなぞかけをするコーナーで、「ハンガーとかけまして」の問いに対し紺野さんは下ネタで返した。
会場からは大きな笑い声が聞こえてきた。そしてそれからのすべてのなぞかけを、下ネタで解いた。
会場ではスタンディングオベーションが起きていた。
「すごいウケて、ものすごくうれしかったです。ただ、松竹芸能は下ネタに対してすごい厳しいんです。それから2年間くらいは事務所に黙って内緒でライブをしていました」
ただ、ねづっちさんがテレビ番組『お願い!ランキング』に紹介してくれたため、番組放送後は公になってしまった。
オンエアの翌日からは、少しずつ仕事が入ってきた。
『『ぷっ』すま』『有吉ジャポン』と名だたる番組にも呼ばれ、オーディションも通りやすくなった。
「このチャンスに人生変わらなかったら、一生売れない人なんだろう。ダメだったらこれで諦めよう、と思いました」
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