「くるり」を生んだライブハウスが直面する危機 「磔磔」が歩んだ歴史を映像化することの意味

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それは、世界的に見ても間違いなく稀有なライブハウスの記録というだけではない。2000年に倒れて体調を崩しながらもお店を運営してきた水島博範店長の跡を、息子の浩司が2代目として引き継ぐという見逃せないドラマが同時で進行していた。

磔磔をつくり上げた水島博範さん(撮影:西岡浩記)

親から子へ受け渡されるライブハウスの物語は、そのまま京都のロックが過去から未来へと流れていくヒストリーとも重なり合う。

「磔磔のドキュメンタリー映画を作ろう! 京都という街と音楽の話を深掘りしよう! そしてそれを日本中はもちろん、世界の音楽ファンに見てもらおう!」。スタッフたちの気持ちは高まり、新たな素材の撮影と取材が始まった。

やがて、映画のタイトルも『SWEET HOME TAKUTAKU』と決まった。おなじみのブルース・ナンバー「SWEET HOME CHICAGO」をもじったものだ。1970年代半ばに起きた「関西ブルース・ブーム」も、磔磔の歴史には欠かせないひとコマだった。

磔磔を誰よりも愛する3人の熱量

そして、その過程で作品の重要な語り部として浮上したのが、水島店長と切っても切り離せない3人のミュージシャンたちだった。

イギリス人でありながら初対面のときから水島を弟のように慕い、磔磔で何度も演奏してきたギタリスト、ウィルコ・ジョンソン。2013年にがんで余命わずかと宣告された際も、真っ先に磔磔を訪れた(その後、がんは消滅し、ウィルコは今も元気だ)。

水島を若い頃から知り、磔磔にいちばん多く出演したバンドであるブレイクダウンのギタリスト/ボーカルで、のちのB.B.クィーンズの活躍でも知られる、近藤房之助。磔磔店内の名物として知られる、アーティストたちに向けたウェルカムボード(看板)を最初に書いたのは彼だった。

左から、仲井戸麗市、ウィルコ・ジョンソン、近藤房之助(撮影:三浦麻旅子)

そして、東京を、いや日本を代表するロックバンド、RCサクセションで忌野清志郎と名曲を作り続けたギタリストで、毎年の磔磔の年末最後のライブを自身のバンド麗蘭で行う、仲井戸“CHABO”麗市。お互いに口数の少ないシャイな2人が、この店では音楽で雄弁に通じ合う。そんな光景も今や磔磔の風物詩といっていいだろう。

2018年9月、その3人が初めて顔を合わせたスペシャル・セッションが、磔磔で行われた。一夜限りの夢のライブは、映画のハイライトとなるであろう熱狂と磔磔への愛情であふれかえっていた。

その作品『SWEET HOME TAKUTAKU』の編集を続けてきたスタッフのもとに、新型コロナウイルスによる磔磔の窮状の知らせが届いたのは、2020年3月だった。

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