ところが、シンプルで率直に聞こえるその表現の裏には、かなり細かい技が隠されている。引用の歌では、2行という圧倒的な短さのわりに、動詞が7つ、接続詞が3つ……感情がいくつも沸き立ち、切羽詰まった、慌ただしい状況がありありと伝わる。まるで頭が麻痺し、その気持ちの嵐を整理すらできないかのようだ。
冒頭の「憎しみ、かつ愛す」という2つの相反する動詞を使った構造は、最後の「心に募り、苦しむ」でもそっくりそのまま繰り返されている。「Odi(憎しむ)」と「excrucior(苦しむ)」は最初と最後になっているので、外向きの感情を表し、「amo(愛す)」と「sentio(心に募る)」はその真ん中に挟まれている。
言葉自体の意味だけではなく、著者が感じている絶望、解決しえない葛藤が、文章の構造にまで現れている。苦しみと愛は紙一重とよくいうが、それをここまで強烈に伝えられた人はカッちゃんのほかにいるのだろうか。
「あいつを愛してやまない」カッちゃん
それでも彼はやはり諦めきれず、苦悶しつつもクローディアを求め続ける。
de me: Lesbia me dispeream nisi amat.
Quo signo? quia sunt totidem mea: deprecor illam
assidue, verum dispeream nisi amo.
彼女は俺を愛している絶対、そうでなきゃ死んでもいい。
それをどうやってわかるのかって?俺も同じさ。あいつをずっと罵っているけど、
命にかけて誓うよ、あいつを愛してやまない。
「レスビア」とはカッちゃんが愛する女性の愛称、ギリシア人の有名な女性詩人にちなんだ呼び名だ。全体的にやや乱暴な言い方になっているが、ここにも同じ表現の繰り返しというテクニックが適用されている。
カッちゃんの不可解な行動とクローディアの不可解な行動は同一のものであり、それを伝える言葉も同じになっているが、その類似性こそは、いつまでも続く2人の強いつながりを暗示している。ただし、彼女が実際そこまでゾッコンだったのかどうかというのは神のみぞ知る……。
平安女子の作品に出てくる殿方は、本当はどのような言葉で怒ったり、いらだったったり、愛を歌ったりしていたのだろうか。兼家は文句ばかり並べ立てる妻に対して、「ムカつくけど、好きでたまらん」とつぶやき、敦道親王は噂をする人たちのことなんか忘れて、100万回キスしてそしてまたキスして、と和泉ちゃんに嘆願していたこともあったかもしれない。
いつものことだが、文学妄想が頭の中で広がり、時空を超えた素晴らしい言葉を拾い上げて、つなげたくなってしまう。平安女子Vs.ローマ帝国を代表する詩人の歌合わせなんて、メンバーは豪華すぎて鼻血が出そうだ。
カッちゃんの痛々しい詩は、心をズタズタにされた友人の慰めには決してならないだろうけれど、恋に懲りない人間のしぶとさと力強さを語り続けている貴重な証拠だな、と思いながら深いため息をつくのであった。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら