もし後悔を最小化するように人間が行動するものであり、それが理想的なのであれば、後悔という感情はまったく無駄どころか、害悪であり、なぜ、人間がこのような「後悔」という感情を持つようになってしまったのか、説明がつかない。進化論的にいえば、後悔する人間は非効率な人間なので淘汰され、現在生き残っている人間は、後悔という感情を持たない遺伝子に支配されていなければいけないはずだ。
なぜ、われわれは、いまだに後悔し続けているのか。
これに対する仮説は、第1には、現在の人間は非効率であり、淘汰、進化の過程である。後悔しがちな人間は滅びていき、後悔しない人間がこれから徐々に生き残っていくのだ、という考え方である。
私は、こういう考え方は嫌いだ。なぜなら、理論に現実をあわせているからだ。自然な仮説は、「後悔」とは価値のある、意味のある感情であり、後悔は人間が生きていくうえで必要なものだが、その必要なものが、時には合理的な意思決定を阻害することがある、というものである。
後悔は「常に望ましい」という考え方とは?
これはいかにも行動経済学らしい考え方だ。人間の本能は9割がた正しい意思決定を行うが、長期的な難しい意思決定においては、本能ではなく、論理的な思考で意思決定を行うべきである、というプロスペクト理論の提唱者のカーネマンのファストアンドスローと同じ考え方である。
つまり、本能はファスト(システム1、というワードをカーネマンは著書では使っている)であり、論理はスロー(システム2)であり、長期的に慎重に考えなければならない意思決定は、スローシステムで意思決定せよ、ということである。投資の意思決定、確率やリスク、金銭の意思決定がこれにあたる、というわけである。
しかし、私は、その一歩先に行きたい。
後悔は常に望ましい、という考え方である。
後悔しない人間は馬鹿であり、経験を無駄にする、ということである。
後悔とは経験であり、経験をつむことはほとんどの場合プラスであるはずであり、普通の理論モデルでは、過去の情報が多いほうが常によりよい意思決定ができるはずである。
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