新ホーム完成「飯田橋駅」、昔は2つの駅だった 明治時代は「東京の外れ」、駅近くには牧場も

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三菱がレンガの街にこだわったのは、見た目の華やかさだけが理由ではなかった。神田区(現・千代田区)では1880年から1881年にかけて、立て続けに大火が発生して街が灰燼に帰していた。

三崎町は三菱が開発。当時は水道橋駅がなく、飯田町駅が最寄り駅だった(筆者撮影)

当時の火事対策は、なによりも街の不燃化、平たく言えば防火が最優先課題だった。大火で三崎町が焼きつくされれば、三菱は街を再建しなければならない。それには莫大な資金が必要になり、三菱にとって不経済でもあった。こうした考えから、三菱は三崎町にレンガ造の家屋を建設した。

そこまで綿密な計画を練った三菱だったが、ベッドタウン化は思うように進まなかった。他方、三菱の思惑とは異なる形で三崎町は発展していく。

「場末」の街を変えた大学

1877年、東京大学が本郷に開学。東京大学は1886年に帝国大学へと改組し、戦後に再び東京大学へと名称変更するが、キャンパスは現在に至るまで本郷にある。東京大学の開学が刺激になって、三崎町の盟主たる三菱は慶應義塾の分校という体裁で1878年に三菱商業学校を開学する。三菱商業学校は1884年には閉校してしまうが、これが刺激になり、三崎町周辺には大学の開学が相次ぐ。

1880年には東京法学社(現・法政大学)が、1885年には英吉利法律学校(現・中央大学)、1889年には日本法律学校(現・日本大学)が開学。キャンパスを移転してくる大学も多かった。1882年には専修学校(現・専修大学)が京橋から、1886年には明治法律学校(現・明治大学)が有楽町から移転した。

大学が増えたことにより、三崎町よりも郊外だった飯田町一帯にも学生が多く居住するようになった。学生が増えたことで、近隣の神保町に古書街が形成された。

場末感が漂っていた飯田町駅の周辺は、こうして著しく都市化していく。そして、飯田町の都市化に合わせるかのように、甲武鉄道が飯田町駅―中野駅間を1904年に電化した。飯田町駅に隣接して東京市街鉄道の飯田橋電停も設置された。これにより甲武鉄道の飯田町駅から市内電車に乗り換えて丸の内方面を目指すという動線が確立する。

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