新ホーム完成「飯田橋駅」、昔は2つの駅だった 明治時代は「東京の外れ」、駅近くには牧場も

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現在、山手線の内側は高層ビルが立ち並び、東京の中心部として発展している。しかし、甲武鉄道が飯田町駅を開設した頃は違った。飯田町駅より内側が東京の中心とされ、飯田町駅は東京の外縁部。平たく言えば、場末だった。それは、当時の地図を眺めてもうかがえる。

箱館の五稜郭で抗戦をつづけた幕府軍の総大将・榎本武揚は、明治の新政府内でも重用された。明治政府は、国民皆兵を掲げて徴兵制を導入。これにより、大量の武士が失業する。だが、榎本は自分に付き従った士族たちを見捨てず、旧士族の失業対策に奔走する。

飯田橋駅東口の近くには、榎本武揚が開設した北辰社があった。現在は碑が残されている(筆者撮影)

そこで乗り出したのが牧場経営だった。当時、世間に牛乳を飲む習慣は根づいているとは言いがたい状況だったが、開国によって訪日するようになった外国人たちは牛乳を欲した。榎本は、まず外国人相手に商売をはじめ、軌道に乗ったら日本人にも牛乳販売を拡大させようとしていた。

牛乳生産を始めるにあたり、問題になったのは牧場地だった。牧場には広い土地が必要になるが、その一方で牛乳の命とも言える鮮度を保つためには都心部に近い場所で生産しなければならない。これらの条件に適う地が飯田町だった。榎本は飯田町に牧場地を構え、北辰社と命名した。

三菱は住宅地を開発

榎本が開設した北辰社は飯田町の外側に広がっていた。対して、内側は三菱財閥が住宅地を建設する計画を進めていた。

明治期から台頭してきた三菱は、政府に近づくことで成長をつづけた。東京駅前の丸の内一帯は三菱村とも称されるが、ここは陸軍の練兵場だった土地を払い下げによって入手して開発。屈指のオフィス街に成長した丸の内は、三菱の都市開発の成果でもある。

丸の内と同時に、三菱は飯田町の東隣にある三崎町も購入していた。現在の千代田区神田三崎町は、水道橋駅が最寄り駅となっている。しかし、同駅が開設されたのは1906年で、三菱が三崎町一帯のまちづくりを開始した頃に駅はなかった。三崎町の最寄り駅はあくまで飯田町駅で、三菱は飯田町駅を意識しながらベッドタウン化を進めた。

三菱のベッドタウン化によって、三崎町界隈にはレンガ長屋と呼ばれる集合住宅が建設されていく。三菱は丸の内でもレンガを象徴的に活用したが、三崎町でもレンガを多用した。丸の内のオフィス街はその華美な街並みから“一丁倫敦”と形容されたが、三崎町はその住宅街バーションでもあった。

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