新ホーム完成「飯田橋駅」、昔は2つの駅だった 明治時代は「東京の外れ」、駅近くには牧場も

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飯田町駅は旅客も扱ったが、帝都・東京の物流を担う貨物ターミナルとしての役割も担っていた。例えば、大正期に入る頃から飯田町駅の一帯に冷蔵倉庫が目立つようになる。電化製品が少ない当時、食料品などを保管する冷蔵倉庫は貨物駅の近くに所在する必要があった。飯田町駅の一帯には冷蔵倉庫業で日本一の規模を誇る日東製氷(現・ニチレイ)の神田工場があり、飯田町駅から各地に食品が搬送されていった。

また、昭和から平成にかけての飯田橋駅界隈には印刷業・出版業が多く集まっていた。もともと江戸時代から日本橋・神田・浅草界隈は木版による印刷業が盛んだったが、明治期に入ると印刷業も近代化した。

飯田橋周辺の印刷・出版業が大きく飛躍した要因は、写真師・小川一真の影響が大きい。明治期に生業としてのカメラマンは誕生していたが、それまでのプロカメラマンは自身の写真館を構え、スタジオ撮影で生計を立てていた。そうしたビジネスモデルを小川は大きく変えていく。

小川は全国各地の風景を撮り歩き、それを印刷物として出版。写真集の販売収入で生計を立てるというカメラマンの新しい稼ぎ口を切り開いた。風景写真を撮り歩いた小川は、鉄道写真のパイオニア的な存在でもある。三菱財閥の岩崎輝弥・渡辺財閥の渡辺四郎というパトロンを得て、小川は全国を行脚して鉄道を記録した。岩崎・渡辺の莫大な資金援助もあって、撮影された鉄道写真は埼玉県の鉄道博物館に「岩崎・渡辺コレクション」として収蔵されている。

関東大震災で変わった駅の姿

小川は飯田町駅の近くに仕事場を構えたので、飯田町駅の一帯には小川のビジネスモデルを模倣した印刷所や出版社がオフィスを構えた。それが昭和・平成にまで受け継がれていた。日東製氷と同様に、飯田町駅一帯に印刷・出版業が増えたこともあり、飯田町駅に発着する貨物列車は紙を多く運んだ。

飯田町駅は東京の物流を一手に担う貨物駅として大きな存在感を発揮していたが、関東大震災によってその立場は大きく揺らいでいく。

飯田橋駅東口と従来のホーム。旧ホーム部分は東口への連絡通路となった(筆者撮影)

関東大震災後からの復興計画によって、飯田町駅は貨物と旅客の分離が図られる。1928年には、旅客駅の飯田橋駅と貨物駅の飯田町駅へと分離。冒頭でも触れたように、この客貨分離の際に飯田町駅とその西隣にあった牛込駅とを統合する形で旅客駅の飯田橋駅が誕生した。

長らく物流の中心だった飯田町駅は、時代とともに物流が鉄道からトラック輸送へとシフトしたことや、社会の変化もあって取扱量は減っていった。貨物取扱量の減少は、少なからず飯田町駅の地位を低下させた。

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