コロナの通称「自粛警察」さんたちと一緒で、ESG関係者は、ビジネスのついでに「正義の立場に立てることが気持ちいい」のだろうが、年金や投信のように他人から運用を受託したお金については、運用がベストであること(手数料が低いことを含む)に集中すべきだ。
また、「運用成績に連動した報酬」は、一見プロファッショナルっぽくて、素朴な顧客(ヘッジファンドに騙されていた年金基金のような客)の共感・感動を呼ぶのだが、やりすぎると、ファンドにとって適切なリスクと、運用者にとって適切なリスクの間に「差」ができる原因となる。また、ヘッジファンドのフィーと同様に、報酬水準を上げる方便として使われてしまう。
外国の大手運用会社は、歴史もあるし、規模も大きいし、ひとことで言えば「様になっている」。しかし、例えば国内株式のアクティブ運用のような主力プロダクトで市場平均に勝つ運用を提供できているわけでもなく、「運用能力」自体が優れているのではないことに注意が要る。
運用会社もいささか気の毒
筆者は大昔に書いた本(「ファンドマネジメント」きんざい、1995年刊)の中で、運用会社にとって可能で望ましいビジネスのやり方は「平凡な運用、非凡なプレゼンテーションだ」と書いたことがあるが、外国の有名運用会社はこれをよく守っていると思う。
他方、金融庁は、日本の運用会社について、商品の販売チャネルでもある親会社(銀行、証券、生保)の資本や人事を通じた支配が強く、運用のプロとは思えない人材(金融庁にこう言われるのだから「よほどの人材」なのだろう)が親会社から天下るなど、運用会社として問題があるというような指摘がなされており、運用会社として特色のある運用が十分出来ていないのではないかとの評価を受けている。
指摘の内容の多くは、筆者も長年そう思ってきたことでもあり、「ごもっとも!」と言いたくなる点が多い。
ただ、日本の運用会社がつまらないのは、長年ホームマーケット(≒日本株)が冴えなかったことに加えて、かつての大蔵省が、投資顧問会社や投資信託運用会社に免許を与え監督する過程で、銀行・証券・生保などの、経営的な基盤があって、親会社が行政の言うことを聞く連中を重用してきたことの影響が大きい。時代は変わるので、親会社との癒着などを「今」問題にすることは、構わないのだが、いささか気の毒ではある。
「長年つまらない人間に育てておいて、いまさら面白みがないと言われても僕は困ってしまうよ…」。日本の運用会社に口があれば、親である金融庁、祖父母である旧大蔵省に、こう言いたいのではないだろうか(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。
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