「竹取物語」冴えないタイトルに隠れた深い意味 なぜ絵本のように「かぐや姫」じゃないのか

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周知の通り、『竹取物語』は、古典文学の中でも絶大な人気を博し、日本人にとって馴染み深い作品だ。同時代の他の物語と違って、絵本や子ども向けバージョンもたくさん存在しているし、日本昔話シリーズにも堂々と仲間入りしている。ところが、現代版の多くはオリジナルの構成がおおむね保たれている一方、タイトルだけは「竹取」から「かぐや姫」に変わっている。それもそのはず。普通に考えれば、主人公はかぐや姫だもの。

『竹取物語』というチョイスは、果たして編集者が適当につけたと片付けていいものなのだろうか。それとも、いい加減さとは裏腹に何か大事な意味合いが込められているのだろうか……そのこう考えているうちに、手が勝手に動いて、物語のページをめくり始める。

今は昔、竹取の翁といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことにつかひけり。名をば讃岐造となむいひける。
その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり。

【イザ流圧倒的意訳】
今となっては昔の話だが、竹取の爺さんと呼ばれる人がいた。彼は野や山に入り込んで、竹を取って、いろいろなことに使っていた。その名はさぬきの造。ある日、彼は竹の中に根本が光るものを一つ見つけた。不思議に思って近づいてみたら、竹筒の中が光に満ちている。よく見ると、背が10センチほどの女の子がなんともかわいらしい様子で座っている。

竹取物語の「主人公」は爺さん?

こちらは大変有名な冒頭、かぐや姫と竹取の爺さんの出会いが描かれている場面。過去の助動詞の「ける」と存続の助動詞の「たり」が一緒に使用されているが、その2つの助動詞は、童話を思い起こさせるセピア色の背景と、目の前に光り輝くかわいらしい少女というコントラストを演出し、臨場感とサプライスにあふれる見事な出だしを作り上げている。

「むかし、男ありけり」で始まる『伊勢物語』や、「昔、式部大輔、左大弁かけて、清原の大君、皇女腹に男子一人持たり」で始まる『宇津保物語』などはいい例だが、平安初期の作品は、主人公の生い立ちが真っ先に説明されるのが一般的だ。『竹取物語』もまた、主人公(だと思われる……)竹取の爺さんの紹介でスタートを切り、名前も職業もバッチリと書かれている。やはりこれは爺さんの物語なのだ、とタイトルを付けた編集者に一票。

しかし、話が進んでいくにつれて、輪郭がどんどんはっきりしてくる姫、難題の寸劇でたっぷりと活躍をなさる求婚者や、プラトニックラブで我慢せざるをえないミカドに比べると、出番が多い割には爺さんの存在感は主人公級ではないかも、という印象を受ける。しかし、編集者の勘違いかな、と思い始めたちょうどその時、かぐや姫を取り戻しにきた天人が興味深いヒントをくれるではないか。月の都出身の者たちはさすがに物知りである。

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