書店の「恋愛・結婚」の棚に行けば……
最近、人事コンサルタントの常見陽平がこんな指摘をしているのを見つけた。
「1980~1990年代にかけて醸成され、今でも残っているメディアによる恋愛指南的なものは、基本的に「恋愛ハウツーをエサにして、いかに消費させるか」を主眼にしており、「読む人がどういう影響を受けるか」「本当に幸せになることができるのか」といったことはまじめに考えられていないのではないでしょうか。」(『ちょいブスの時代』)
言われてみればそうだ。書店の「恋愛・結婚」の棚に行けば、いかにして男を捕まえるかっていうハンティング系の本と、悩む女の子のためのスピリチュアル系の本がずらりと並んでいる。
あとは、すでに相手のいる女の子のための結婚指南書で、たとえば結婚雑誌『ゼクシィ』は4回読んだら結婚(準備のキホン)が大体わかるとうたっている。
ここに欠けているピースは、将来の結婚生活を幸せなものにするためにはどんな相手を見つければよいのか、換言すれば、ハンティング系と結婚指南書を架橋する問題領域だ。
その点、1983年に創刊、20代の初代女性編集長が「どんな人と、何を基準に、相手を選んだら、幸せな結婚ができるのかしら」と編集方針を語った結婚雑誌、『結婚潮流』は画期的だった。
けれど、相手を見つける前の女性に結婚後のことまで想定させるというのはなかなか大変なものらしい。結論から言ってしまえば、彼女たちの試みも挫折してしまうのだ。
テーマは結婚、マーケットは適齢期の女性とその周辺という限界があるにもかかわらず、『ゼクシィ』のように読者を定期的に入れ替えることもできないために、毎月とにかく新しいネタを提供しなければならない。その構造にそもそもの問題があった。初めのうちは若いエネルギーで乗り越えられても、やがて誌面がマンネリ化したのは致し方ない。
その極点は1986年の誌面で、そこには編集部の倫理崩壊の片鱗さえ見られる。竹内洋、コシノ・ジュンコ、飯田哲也らによる11月号の特集記事は、1984年2月号に掲載された特集ほとんどそのままなのだ。筆者たちの了解を得たのかどうか知らないし、知りたくもないが、ひどい晩節の汚し方ではないか。
ここまでに至った頃には、論調も大きく劣化していたのは当然だ。前回(「結婚圧力vs.寿退社圧力」どちらが重い?)は「職場or家庭」という枠組みを例にとったけれど、『結婚潮流』の論調の変化を見るのによりよい補助線は、「見合い結婚or恋愛結婚」という枠組みだ。