とすると、法律も省庁訓令でもなく、市民が勝手に「不道徳である」「けしからん」「秩序を乱す」と言いだし、市民が市民を通報する道徳自警団は、翼賛体制下よりも異常な状況であると言わなければならない。罰則も法的根拠もなく、市民が市民を他罰できるのであれば、それは法治国家ではない。魔女狩りや私的制裁が跋扈した単なる中世社会である。
私が危惧するのはコロナ禍が収束した後の日本社会のありようだ。経済活動は段階的に緩和され、合理的に見えて実は精神的怠惰を生むリモートワークは、徐々に日常の通勤に戻るだろう。ワクチンの開発、社会免疫の獲得の進捗度合いにもかかっているが、世界や日本は遠くない将来、必ず元に戻る。過去数百年の人類と感染症との闘いの歴史がそれを証明しているからである。
本質的恐怖とは、コロナウイルスによる直接的な人的損害ではない。最も恐ろしいのはすでに述べたように、コロナ禍で明瞭になった、日本人のお上からの要請にすぎないお願いに無批判に追従し、市民が市民を懲罰するという中世社会的性質だ。
コロナ禍が過ぎ去った後、禍中でいわれなき差別を受けた被害者と加害者、いわれなき攻撃を受けた被害者と加害者の溝が明瞭になる。自警団的行為に走った者(およびその幇助者)と、そうではない者、両者のどちらでもない者の三者間で、分断が可視化される。
被害者が絶望したとき、社会改良の機運はなくなる
戦中、国家権力を背景に権勢をふるった憲兵や特高警察が、戦後逆に民衆から報復として私刑の憂き目に遭う――という状況は、戦後混乱期に頻発した。コロナ禍後、そのような混沌とした市民相互不信用の状態が起こるとは思いたくないが、いわれなき差別や攻撃を受けた側の人間は、たとえコロナ禍という非日常での出来事とはいえ、その事実を永遠に刻み付けるだろう。
社会に対しての絶望、市民相互の不信、防空法の時代より格段に工業力や科学力が増したにもかかわらず、中世的気質がはびこる令和社会や国家に対する失望と落胆が、社会に蔓延するかもしれない。
いったん、人々が社会に対して絶望すると、社会改良の機運は失われる。コロナ禍で差別や攻撃を受けた被害者が、「日本社会や日本人とはこの程度であったか」という深い諦観を抱くとき、社会をよりよくしようという気力そのものが削がれかねない。市民が市民を懲罰するという空気は、社会に害悪ばかりをもたらし、分断は不可逆的なほど深刻化する。
本来、疫病流行に際して謝罪すべき者、攻撃されるに値する者などは、いないはずである。誰かを懲罰して得られるものは、懲罰後のバツの悪さとしっぺ返しなのだ。
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