今回のコロナ禍では、国家による自粛「要請」は、あくまで”お願い”であり、罰則はない。お上による自粛要請に従うのも、従わないのも、市民の自由判断に任せられている。にもかかわらず、市民の自由判断は翼賛的な空気の中で、法的根拠に等しい事実上の強制力として、市民が市民を懲罰するという、自警団的行為にまで発展している。
コロナ感染者への差別的な落書き、営業自粛の要請に従わないパチンコ店や小売店への投石や抗議電話、コールセンターへの通報、他県ナンバー車両への嫌がらせや追跡等々。果ては感染した著名人の感染前の行動が、まるで犯罪者の足取りのように報道され、感染者は意味不明な謝罪にまで追い込まれる始末だ。
防空法は、その成立の背景はともかく、明確な罰則を設けたので、国民はそれに従った。1945年3月10日、アメリカ軍が東京大空襲を敢行した際、東京都民がかたくなに初期消火にこだわって、猛烈な火勢に追われて十分な避難ができず、その結果、10万人もの犠牲者を出したのだ。その一因は、この防空法による罰則があったためである、と言われている。
国家による懲罰的な戦争協力法が人々の意識を悪い意味で結束させ、「空襲があっても消火活動をせず、避難するのは犯罪である」という、翼賛意識がびまんしたための悲劇の側面であった。
お上のお願いを市民が読み、相互監視に駆り立てた
戦争の悲劇から75年余。大戦の反省から出発した日本国憲法は、現在に至るまで、1文字たりとも改変されていない。国家権力による統制は悪で悲劇しか生まないという意識は、戦後社会で、いわゆる戦後民主主義としてにわかに広がった。しかし、戦争の直接体験者が没し、戦争の記憶が風化する中、現代の日本人はお上の法的根拠がないにもかかわらず、お上の指導や要請をまるで法的根拠のように”脳内変換”し、市民が市民を他罰する、という異常な事態にまで至っている。
今回のコロナ禍では、現代日本人が防空法の時代よりももっと監視的な、相互に他罰的な価値観を有している、という事実が浮き彫りになった。繰り返すように、防空法の違反者には罰則があったが、コロナ自粛の要請のへの対応は自由意志であり、違反でもなければ当然犯罪ではない。
犯罪ではないもの(=不倫やマナー違反等)を、「不道徳である」「けしからん」「秩序を乱す」と言って私刑に処する行為を、私は”道徳自警団”と名付けた。これこそ、防空法の時代より他罰の根拠が希薄なため、もしかすると、現代日本人の意識は戦中よりも後退しているのかもしれない、とすら思う。
「STAY HOME」とは、あくまでも掛け声やスローガンでの類であって、拘束力はない。STAY HOMEに応じるのは結構だが、国家からの命令ではない以上、それに従う義務は当然ない。掛け声やスローガンにすぎないものが市民社会で事実上の強制力を持つとき、社会から自由は剥奪される。
何かの法に則らないで、お上が市民の空気感をこうも簡単に相互監視的に、自警団的に駆り立てることができるのであれば、もはや国家による法的根拠がなくても、市民はある一定の方向へ、お上がお願いするだけで誘導される、ということになる。この風潮が戦争につながる、とは言いたくないが、瞬時、そのような悪夢が惹起される。日本国憲法を1文字も変えず、特段の立法措置も講じないのに、お上の指導(要請)方針へ国民がさきまわりして、自発的に従う社会は異常だ。
防空法の時代、市民の相互監視組織の代名詞であった「隣組」ですらも、市民が自発的に形成した自警団ではない。日中戦争が激化する1940年、内務省訓令によって組織された、上からの末端自警組織なのである。
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