幻の1台に見る「マセラティ」栄枯盛衰の裏側 デ・トマソが生んだチュバスコの数奇な運命

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このチュバスコは450台の限定生産モデルとして、1992年からデリバリーが開始されると発表された。価格は発表されなかったが、F40と同レベルと言われていた。

では、このチュバスコはなぜ、1台のモックアップが製作されただけでお蔵入りとなってしまったのだろうか。

巷では、株主となったフィアットが同じく傘下にあるフェラーリとの競合を嫌い、プロジェクトの承認をしなかったと語られている。

たしかにフィアットグループ入りしたマセラティは、今までのようにアレッサンドロの一声ですべてが動くという環境でなくなっていたのは事実だ。しかし、それはある一面からの見方にすぎない。

当時、マセラティは各国のディーラーへとチュバスコの販売数量の打診が行われたのだが、その反応は芳しくなかったという。

プロジェクト中止の真相は日本にあった?

ビトゥルボ系モデルの顧客にとって、その価格はあまりにも高価であったし、古くからのマセラティスタにとって、このチュバスコはあまりに“デ・トマソ”であったからだ。

しかし、アレッサンドロは日本という切り札があると楽観していたようである。バブル景気の日本は、北米マーケットなき後、トップを争うほどの販売数量を記録していたし、高額な限定モデルに人気が集まっていたことも、彼はよく理解していたのだ。

だが実際には、少し遅かった。日本は“総量規制”の通達とともに、バブル崩壊へとまっしぐらであった。これが、プロジェクト中止の真相である。

今もモデナのマセラティ・ミュージアムに展示される「チュバスコ」(筆者撮影)

アレッサンドロは、プロジェクトを即座に中止するとともにフィアットを説き伏せ、チュバスコのアーキテクチャーを流用したバルケッタの開発と、ワンメイクレースの開催へと方向転換した。さすが、この男は転んでもタダでは起きない。

しかし、そんな彼の商売人としての顔にウラには、何とかマセラティのスポーツカーを作り続けたいという熱い思いがあったことも事実だ。

素晴らしき幻のチュバスコとアレッサンドロ・デ・トマソの情熱。素晴らしきイタリアンコネクションに乾杯。

越湖 信一 PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表

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えっこ しんいち / Shinichi Ekko

イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。

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