当時、アレッサンドロ・デ・トマソは、12月14日のマセラティの創立記念日にメディアや関係者を集め、ニューモデルを発表するのを常としていた。1990年の12月14日、そこには大きなサプライズが用意されていた。
アンベールされたのは、シャープなラインを持った2シーターのミッドマウントスーパースポーツ、チュバスコであった。
1980年代後半、マセラティの経営状況は芳しいものではなかった。アレッサンドロのリーダーシップにより1981年に発表された「ビトゥルボ」は、リーズナブルな価格設定と北米マーケット開拓の成功によって、社の経営を安定させることに成功した。
これでマセラティの将来も安泰かと思われたが、急激な生産規模の拡大により品質問題が発生し、あっという間に販売数量は急降下した。頼みの北米マーケットにおいてもリコールが多発し、1987年には撤退を余儀なくされた。
フォードとの共同事業であった「デ・トマソ パンテーラ・プロジェクト」をきっかけとして、アレッサンドロとリー・アイアコッカの間には深いつながりが誕生した。その絆は、アイアコッカがクライスラーのトップとなってからも健在で、当たり前のようにクライスラーはマセラティの重要な株主となっていた。
アレッサンドロはそれに飽き足らず、いくつもの共同プロジェクトをアイアコッカに提案し、ゆくゆくはクライスラーの完全傘下にマセラティを置こうと画策していた。もはや、デ・トマソファミリーのような資本力のもとでは、自動車メーカーを維持することが難しい時代となっていたのだ。
しかし、その戦略は思うに任せず、アイアコッカはマセラティとの関係を解消し、ランボルギーニを買収してしまった。
ハイパフォーマンスカーバブルの時代で
チュバスコが発表される1990年の頭、アレッサンドロはクライスラーから引きあげた株式の49%をフィアットオートに渡し、マセラティはフィアットグループの一員となっていた。さらにクライスラーの販売網を利用し、北米マーケットへ再参入するというアレッサンドロのプランも消滅してしまっていた。
そこで、マセラティは方向転換を図った。北米マーケットを前提とした量産戦略から、ヨーロッパや当時、大きなシェアを持っていた日本などに特化し、ハイエンドモデルを少量生産する戦略へのシフトであった。
折しも当時は、ハイパフォーマンスカーバブル。フェラーリ「F40」の登場、ロマーノ・アルティオーリによるブガッティ復活など、マーケットには活気があった。その新しいマセラティの戦略の切り札として企画したのが、前年に発表した「シャマル」に続くチュバスコであったのだ。
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