日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識 統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが

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2001年6月、「司法制度審議会」が当時の小泉純一郎首相に「司法制度改革審議会意見書 ―21世紀の日本を支える司法制度―」と題する報告書を提出している。ここで、裁判員制度の導入も提言された。

その中に「改革の基本理念」として、行政改革からはじまる一連の構造改革を以下のように統括するところからはじまっている。

このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。(報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向 〜 第1 21世紀の我が国社会の姿」より)

ここではっきり「お上」という言葉が記載されているように、国民の統治客体意識とは「お上」に支配されているという江戸時代から染み込んだ国民意識に他ならない。「お上」が平民を守ってくださる、その代わり「お上」から言いつけられたことは絶対である、という統治される側の常識。

お上の要請に従う者と従わない者

それが現在の「緊急事態宣言」の状況下におかれても国民への「要請」を立て前とするのは、この統治客体意識、すなわち「お上」意識によって立つところにある。お上のいうことは絶対であるという無意識のうえに、行政側が、「お上」のいうことだから聞いてくれるよね、とする「要請」の正体。

実際に真面目な日本人はそれに従う。むしろ、そのほうが多いことは現状を見ての通りだ。

だが、それに従わない者も出てくる。新型インフルエンザ等対策特別措置法では、「協力要請」からはじまって、「要請」「指示」へと自治体は厳しくしていくことができる。最初の段階で営業自粛に従わない場合には、「お上」は店名を公表するなどして、ギリギリと締め上げていく。

統治客体意識の訣別を目指した20年前の構造改革とはなんだったのか。そう疑問になるような、国民の「お上」意識に依存して、この難局を乗り切ろうとしている。

だが、それもいずれは「指示」に変わってしまう。罰則はないとはいえ、それに代わる合法的措置も検討されるはずだ。「お上」の仕返しが待つとすれば、その効果はてきめんだ。それでも、あくまで法的には「要請」なのだ。その真意は国民が察しなければならない。

しかも「要請」であり「自粛」であるとすると、国がその損失分を補償する必要もない。東京都は営業自粛に応じた事業者に協力金を支給することをいち早く表明し、他の自治体もこれにならう方向だが、この「緊急事態宣言」が長引けば、それでいつまでも耐えられない。

もっとも、事後チェック型の社会であれば、あとで補償を求めて国や自治体などを提訴すればよい。その為に構造改革があったはずだ。

すでに訴訟社会のアメリカでは、ミズーリ州が新型コロナウイルスを蔓延させた元凶として、中国政府に対し、賠償を求める訴えを起こしている。

一方で、裁判沙汰を嫌い「お上」に楯突くことを嫌う日本人に、「お上」を訴えることができるだろうか。できないのなら、そこは真面目に「要請」に従うしかない。

青沼 陽一郎 作家・ジャーナリスト

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あおぬま よういちろう / Yoichiro Aonuma

1968年長野県生まれ。早稲田大学卒業。テレビ報道、番組制作の現場にかかわったのち、独立。犯罪事件、社会事象などをテーマにルポルタージュ作品を発表。著書に、『オウム裁判傍笑記』『池袋通り魔との往復書簡』『中国食品工場の秘密』『帰還せず――残留日本兵六〇年目の証言』(いずれも小学館文庫)、『食料植民地ニッポン』(小学館)、『フクシマ カタストロフ――原発汚染と除染の真実』(文藝春秋)などがある。

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