その一連の構造改革の流れは、もっと前の橋本龍太郎内閣の時代からはじまっていた。折しも、終戦から50年が過ぎ、バブル崩壊の余波が押し寄せてきていた時期だ。
その最初は、行政改革だった。1996年11月、当時の橋本首相を会長とする「行政改革会議」が立ち上がり、翌97年12月には「最終報告」が取りまとめられた。
そこでは、当時の日本は、第1に黒船来航にはじまる明治維新、第2に1920年代の世界恐慌と軍部の台頭から戦争、第3に敗戦と米軍の駐留、戦後復興に次ぐ、第4の転換期にあると位置づける。そして冒頭において、行政改革の趣旨としてこう記載されている。
ここに登場する「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質」という言葉。すなわち、国がなんでもやってくれるというまさに国家への依存体質であって、国民は統治される側の客体であるという意識が色濃く残っていたことを指している。
事前規制型行政の弊害
この「行政改革会議」を経て、1998年1月に、政府内に総理大臣を本部長とする「行政改革推進本部」が設置され、その下に「規制緩和委員会」が立ち上がる。これは翌1999年4月には「規制改革委員会」に名称を変更し、さらに組織が強化される。
小淵恵三首相に代わった1998年8月には、内閣の諮問機関「経済戦略会議」が組織される。バブル崩壊後のどん底の状態にあった日本経済の建て直しが急務となったこの会議では、発足からわずか半年後の翌年2月に「日本経済再生への戦略(経済戦略会議答申)」が提出されている。
これらの諮問機関の審議の中で、「事前規制(調整)型」の行政(すなわち、事前にあれやこれやと規制をかけつつ、全体を調整しながら、企業や国民を守って戦後成長を支えた行政姿勢)から、規制を撤廃して自由競争を促進させる「事後チェック型」の行政への転換が求められるようになり、そこで「小さな政府」という言葉が用いられて、米英型の新自由主義社会こそが、日本経済再生の道であると方向づけられていく。
ここでは、自由競争社会で事後チェックと救済の機能を果たすものが、司法であるとされた。そこで次に司法制度改革が求められた。
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