ダイバーシティ企業に学ぶ危機を乗り越える策 母が知的障害のある娘のために行った改革

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現在、「がんばカンパニー」の工場では、食品衛生責任者の資格プレートに、障害者の名前も掲げられている。知的障害者が主力商品の製造を任され、機械も操作する。時間をかけて教えれば、なんなくできるようになるのだという。また、箱詰めなどの座り作業に従事する身体障害者が、誰の手も借りずに仕事ができるよう、作業回りは計算されている。

清潔で整然とした工場内を見学した人からは「どこに障害者がいるのですか?」「彼らは本当に障害者なんですか?」と、よく言われるという。

がんばカンパニーの歴史は?

そんな「がんばカンパニー」は、1986年に四畳半一間のアパートから出発した。「障害者にはなぜ内職と裏方の仕事しかないのか」という疑問を抱いた当事者たちを中心に設立された。

当初は粉せっけんやお茶の仕入れ販売などで、年間売り上げが300万円程度、平等分配すると一律3万円にしかならなかった。品目を菓子、珈琲へと拡大し、1990年にようやく年間1000万円ほどの売り上げを確保したが、分配する人数も増え、低賃金は変わらなかった。

また、健常者の支援メンバーが入っても、まだヘルパー制度が整っていなかった当時は、通常業務に加え、障害者の介助、送迎まで求められたため、次々と辞めていった。駅前でチラシをまき、ボランティア探しに明け暮れる日々が続いた。

1992年から、知人を介して1人のシングルマザーが働き始めた。自閉症児を抱えていたが、特段、障害者運動に取り組みたかったわけではなく、離婚したので、食べていくためだったという。後に所長を務めた中崎ひとみ氏だ。中崎氏は、当事者主体の中、「2年くらいはおとなしくしていた」そうだが、徐々に、商品の選定、訪問販売のルート化、ウェブサイトの見直しと、事業改革を推し進める。

1995年には売り上げが3600万円を超え、障害者を含めた雇用者全員と雇用契約を結んだ。障害者総合支援法により、就労支援制度が発足したのが2006年のことだから、先駆けること、10年以上になる。

1996年、中崎氏は現在の基幹事業であるクッキー製造を始めた。知的障害のある中学生の女の子が、普通学校に通うことを拒否され、養護学校にもなじめずに、家で毎日母親と2人、クッキーを作っていたことがきっかけだった。

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