巣鴨の大山聡教諭は「特に今年入学した中1・高1にとって、大菩薩峠ができないことによる教育的損失は計り知れない。黙々と歩けばいつか達成できるという成功体験、仲間との連帯感、OBや地元の方々などの協力によって大会が実施できているという感謝、そして何より『巣鴨学園の一員になった』という実感。逆に中2以上は、失ってみて初めてあの行事の意義を感じる機会になるかもしれない」と嘆く。
わかりやすくするために有名校の個性あふれる学校文化を例に挙げたが、一般的な公立小中学校でも同じである。もし子どもたちが一堂に集う機会が奪われたままの時間が長引けば、子どもたちはどこで社会性などの非認知能力を身につければいいのだろう。
「友達」がいない生活で子どもたちは何を学ぶのか
人間が社会的な生き物である限り、子どもたちが友達との接触なく育つことなど不可能であることは、誰でも直感的にわかるはずだ。
休み時間の教室でのバカ話だったり、廊下で好きな子とすれ違うときのドキドキ感だったり、もちろん部活での汗と涙だったり、行事で力を合わせることだったりという経験が損なわれることを、社会としてどう埋め合わせすればいいのか。
かねて私は、必ずしもそれを学校だけに求めなくていいとは考えてきた。しかし現状においては、学校だろうが習い事だろうが、子どもたちが集まること自体が不可能なのだ。
子どもたちもオンラインでつながればいいという考えもあろうが、大人たちが「Zoom飲み」でも関係性が保てるのは、生身のふれあいの中で培われた社会性がベースにあってのことだ。そのベースを育む機会そのものが損なわれていることが問題なのだ。
子どもたちが「友達」と遊ぶことを一切禁止されたディストピア的世界観を仮定してみよう。彼らがどのように人とコミュニケーションし、知り合い、恋に落ちるのか……。SF小説家でもない限り、想像すらできないはずだ。
2月下旬の突然の休校要請は、経済システムをウイルスから守るために、まっさきに子どもたちの学ぶ権利が犠牲にされたことを意味する。それはすなわち未来を犠牲にしていることにほかならない。
そしてそれ以来、ブルーの部分(認知能力分野)の学習をどのように進めるのかという方法論ばかりが議論されてきたように思うし、当面の課題解決としてはそれでよかったと思うが、今後、この状況が長期化するのなら、グリーンの部分(非認知能力分野)に残された難題を社会として避けては通れない。
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