かつての鉄道「不要不急線」、戦後たどった運命 「コロナ禍」の75年ほど前にあった鉄道の休止

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東京競馬場のアクセス路線だった下河原線の場合、馬券発売を伴う競馬開催の停止で観戦客が見込めなくなったことが大きい。ただ、営業休止後は沿線の東芝府中工場に通勤する工員専用列車が一部の区間で運転されるようになった。

えちぜん鉄道三国芦原線の終点・三国港駅は不要不急線とされた国鉄三国線の駅だった(筆者撮影)

ちなみに、三国線は国鉄線としては休止になったが、末端の三国―三国港間は京福電気鉄道(福井支社)に貸与。福井―三国港間を結ぶ同社の三国芦原線(現在のえちぜん鉄道三国芦原線)の一部になった。

これら不要不急線とされた21線区は戦後、どうなったのだろうか。

富内線と橋場線、五日市線、有馬線、田川線は、いずれの休止区間も再開することなく廃止されている。これらの路線は五日市線のように並行路線があったことや、休止した旧ルートに代わる新ルートの整備などで復活させる意味を失ったものが大半だった。

いまも残るのは4線区だけ

白棚線は鉄道の復活が決まったものの採算の見通しが悪かったため、のちに線路敷地をバス専用道に改築。1957年から専用道を走るバスの運転が始まった。いまでいうバス高速輸送システム(BRT)のはしりだ。現在もジェイアールバス関東の路線バスとして運転されているが、専用道の大半は拡幅されて一般道に変わった。

残りの15線区は1945年以降、順次線路を敷き直して運転を再開している。しかし、そもそも輸送量が少ないという理由で不要不急線とされた路線だったから、戦後も赤字経営に悩まされた。

国鉄は1970年代前半にローカル線の廃止を進め、札沼線の新十津川―石狩沼田間と川俣線、三国線の金津―三国間を廃止。下河原線は武蔵野線に線路敷地を譲る形で廃止されている。それ以外の路線も、国鉄再建法(1980年公布)や国鉄の地方組織(鉄道管理局)の判断に基づき廃止や第三セクター化が進められた。

現在も鉄道路線として残っているのは、札沼線の石狩当別―新十津川間と、久留里線の久留里―上総亀山間、三国線(えちぜん鉄道三国芦原線)の三国―三国港間、信楽線(現在の信楽高原鐵道)の4線区だけだ。

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