緊急事態なのに通勤させられる人々が抱く危難 「生物的な限界」を織り込まない社会の弱点

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美術批評家のジョナサン・クレーリーは、「連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」と看破した(『24/7:眠らない社会』岡田温司・石谷治寛訳、NTT出版)。クレーリーは、睡眠という「生物的な限界」を否定するわたしたちの社会のあり方に焦点を当てているが、重要な点は、そのような「生物的な限界」が「あたかも存在しない世界であるかのように」振る舞ってしまっていることだ。

これは働く側にもいえるかもしれない。心理的なストレス反応、あるいは風邪といった「生物的な限界」を抑え込み、「連続的な労働」が途切れることを回避するために、抗うつ薬や風邪薬といった生化学的なコントロールに頼ってきた。「生物的な限界」に屈することは社会レベルでは「経済的なロス」を意味するからだが、一方、個人レベルでは思いどおりにならない「生物的な身体」を「飼い馴らす」ことに執着する精神がある。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大では、わたしたちが依存している「24時間・週7日フルタイム」の経済システムそのものが、ウイルスに感染して病床に伏す身体という「限界状況」を想定していないことを暴いてしまった。

新型コロナはわたしたちの社会を狡猾に利用し尽くす

わたしたちはつい最近まで自分たちが「か弱い生物」であることを忘れ、不意に「身体の壊れやすさ」に気づいたのではないか。流行の当初、解熱剤などを使って働き続けなければならない就業環境などが取り沙汰されたが、新型コロナウイルスは「生物的な限界」を科学的にコントロールしようとするわたしたちの社会を、むしろ狡猾(こうかつ)に利用し尽くす凶暴な存在といえるだろう。「生物的な限界」を織り込まない社会を放置すればするほど、わたしたちは自らをウイルス爆弾に変えることになる。

これは、制空権も制海権もないところに兵隊を送り込む軍隊のようなものだ。

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