「女性活躍の先駆者」となった少女のスピーチ力 マララさんの「国連演説」を振り返る
母国で教育の普及を呼びかけた少女
マララ・ユスフザイをノーベル平和賞の受賞者に推す動きは、2012年の10月9日に、彼女がタリバンによって狙撃された直後からあった。
女子教育を否定しようとする無法者が跋扈(ばっこ)する、かつては平和だった国パキスタンで、自由な教育の普及を呼びかけたために狙撃され、九死に一生を得た健気な女子学生は、その存在自体が「センセーショナル」であった。
マララが治療を受けるために滞在することになったのが、旧宗主国としてパキスタンと特別な関係にあったイギリスだった。そのイギリスのゴードン・ブラウン元首相が国連の教育特別代表(特使)を当時務めていたことが、マララにとって幸運に働いたのだろう。
ブラウン特別代表や潘基文事務総長ら国連関係者の肝いりで「国連若者総会」が開催されることになり、マララがスピーカーとして招かれた。
彼女のスピーチで有名な一節を引用しよう。
文盲・貧困・テロと世界規模で闘っていきましょう。本とペンという最強の武器を手に取っていきましょう。1人の子供、1人の教師、1冊の本、1本のペンで、世界を変えることができます。教育がただ1つの解決策です。教育こそが最優先なのです。ありがとうございました。
16歳の誕生日に当たる2013年7月12日に、マララはベナジル・ブット元パキスタン首相がかつて身に着けていた桜色のショールを身にまとって登壇したのだった。
のちに暗殺されたブット元首相はイスラム世界が生んだ初めての女性首相で、同じく暗殺の標的になったマララは彼女を深く尊敬していた。
マララがタリバンによる暗殺の標的になったのは、彼女がBBC(英国放送協会)の求めに応じてタリバンを批判するブログを書いていたからである。BBCの放送を通じてそのことを知ったタリバンはマララがイスラム原理主義を冒涜していると受け取り、彼女を「処刑する」計画を立てた。このマララに対する暗殺未遂事件では、頭部に2発の銃弾を受け重体になったマララのほかに女子学生2人が負傷した。
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