「歩くパワースポット」になれた43歳男の幸福論 SHOCK EYE「大切なものって意外と少ない」
「彼女が『もしダメだったらふたりでなんでもやればいいじゃん。一緒に仕事してさ』って言ってくれた。それを聞いて肩の力が抜けたんです。音楽で成功してもしなくても、幸せは自分で作ることができる、と思えたのが大きかった」。
一生懸命やって、もしダメだったらダメで彼女とささやかだけど家庭を持つ。それもそれで幸せな選択なんじゃないか。彼女の言葉によって失敗は怖いものではなくなった。
「結局、ずっと損得勘定で考えていたから僕はダメだったんです。めちゃくちゃ頑張って叶わなかったらどうしよう、何にもならなかったら損するだけだって。でも損得なんて自分の気持ち次第。どう転んでも得だと思える生き方をすればいい」。
26歳まで1年半。SHOCK EYEさんは完全にほかの仕事を辞め、音楽制作に専念することを決めた。バイトを掛け持ちしてまで応援してくれる彼女のためにも結果を残したい。10年間なんとなくやってきた音楽に本気で向き合うと決意した瞬間だった。
「これが自分にとって最後のチャンスだと思いました」。
「26歳までにデビューできなかったら音楽活動をやめる」と彼女と約束し、一念発起して音楽制作に専念した20代前半。そして見事に約束通り、SHOCK EYEさんは26歳でデビューを果たした。
「期限を決めてからは音楽のことしか考えていませんでした。これまで仕事を言い訳にして避けていたイベントにもすべて顔を出して、メンバーともより密にコミュニケーションをとるようにした。1曲作るのに本当に時間がかかりました。仲間でもありライバルでもあるから意見もぶつかったし……。だからこそ納得のいくテープも作れたんでしょうね」。
「純恋歌」のヒットで生まれたギャップと責任感
2001年のデビュー後、2006年に湘南乃風が発表した「純恋歌」は、年間シングルチャートでTOP10にランクインするほどの大ヒットを記録。続く「睡蓮花」もヒットを飛ばし、湘南乃風は一躍人気アーティストとして注目を集めるようになった。当時、一気にスターダムに上がったことをどう感じていたのだろうか。
「僕はうれしかったけど、戸惑うメンバーもいました。この先どういう方向性で進んでいくか言い争うこともあった。僕らはライブ会場やクラブで盛り上がる音楽をメインにやってきたから、ラブソングで注目を浴びることにギャップを感じていたんです」。
こうしたい!という思いだけでやってきた10代〜20代。30代に突入し、自分ひとりの行動がメンバーやスタッフ、ファン、そして家族に影響を与え、大きな責任が伴うことを痛感した。